こんにちは、栗栖鳥太郎です。
今回は、「論理と感情の分別」について書きます。
日本人は論理的思考能力が弱いと言われて久しいですが、その主要因がここにあると思っているからです。
「論理」と「感情」は、切り離して考えるべきです。
そうでないと議論に弱いままですし、そもそも議論になりません。
今回の記事は、「空気」というあいまいなものに頼って判断するということに慣れてしまった、論理に強くなりたい人のために書きました。
目次
日本人には多い? 「論理と感情がごっちゃになる人」
「あなたの人格」ではなく「あなたの展開する論理」をめぐって議論している
上司や友達、先生、親に対して、
「あなたの言うことは、これこれこういう理由でおかしいと思います」
ってはっきり言えますか?
あるいは、
「私はこういう考えを持っている。だからあなたの考えとはこういう点で異なりますね」
といったように、自分の論理・相手の論理をはっきり区別できていますか?
出来る人は、おそらく少ないと思います。
それはなぜかといえば、「相手の人格を攻撃している気分になってしまう」からではないでしょうか。
「あなたの言っていることは論理的に間違っている」と言われると、
なぜか
「それはオレをバカにしているのか?」
みたいな無条件反射の怒りを発する人がいるのです。
ちょっと待ってください、あなたを人格批判したわけではありません。
「ばか」「あほ」「間抜け」って言っているわけじゃないんですから。
あくまでも、「あなたが間違っている」のではなく、「あなたの言っていることは、こういう点において、論理的に筋が通っていないのではありませんか」
と指摘しただけです。
それがなぜ、「オレを馬鹿にしている」になるのでしょうか。
これは「感情と論理をごっちゃにする人」の典型例です。
そもそも、論理がなぜ存在するかと言えば、「論理によって考えられた物事は、説得力があるし、間違っていれば論理による反論ができるので、だれにでも通用する可能性が高い」からです。たとえば学会の論文なんかはその典型的なもので、論理論理で押していくからこそ世界中の異なる言語圏の学者たちにも通用するのです。
その一方で、「感情」というものは、「だれにでも通用する」ものではありません。
あくまでも感情はその人個人のなかでしか、あるいは特定の集団のなかでしか通用しないものです。
「ウチの学校のタッちゃん(仮名)はマジすげぇ武勇伝持ってるから」というのは、その学校の中でしか通用しません。
つまり、物事を先へ先へと進めようとする限り、「感情」ではなく「論理」に基づいた議論が必要なのです。
論理で話せば、間違っているところは修正できます。
「こういう論理より、こっちの論理の方が、こういう点で優れているから、こっちを採用すべきだよね」とできます。
でも感情で話せば、間違っているところは修正できません。
「自分が間違っている?相手の言ってることが正しい? キーッ、悔しい、しね」が入ると、もうそこで議論はストップします。
ですから本来、論理的に考えて間違っているのなら、その意見は即座に改めるべきです。
なぜなら、論理的に考えておかしいなら、他にその意見を正当化する有効な手段はもう残っていないからです。
論理で通せない以上、もう「詰み」です。感情を使って意見を正当化するのはアンフェア。
ぶっちゃけた話、論理で考えられない人にとっての最後の砦が、思考放棄の末の「なんとなくこれが正しい気がする」「自分の言っていることは常識的・みんなと一緒だから正しい」なのです。これは論理による反証ができないため、フェアではないのです。
議論に感情を入れると、しまいには「オレの言うことが聞けないのかー!」みたいな滅茶苦茶な論理で従わせようとする人も出てきます。
やはり、議論と感情は「混ぜるな危険」ですね。
感情が入った時点で思考がストップする
ここで、「感情が入る」ということはどういうことが考えてみましょう。
皆さんも経験的に知っていると思いますが、脳には「論理モード」と「感情モード」があります。
メジャーリーグの乱闘シーンなんかはまさに「感情モード」です。
論理的に考えれば、殴ったら退場になるし、罰金食らうし、ケガするし、相手と仲が悪くなるしで良いことはまったくないはずです。
しかし、「痛い!」とか「危ない!」といった反応の次に反射的に出てくる「てめえこの野郎!」という感情がとても強力なので、そういった冷静な判断は消し飛んでしまいます。
このように、感情が入っている場合の行動原理は「感情」です。「論理」じゃありません。
感情モードになっている人を論理で説得しようとしても無理です。
感情的になっている人は、いったん落ち着かせてからにするか、そもそも議論の相手にするべきではないでしょう。
あくまでも「論理的に考えて最善の選択をする」のがベスト
逆に、「論理モード」でいる限り、人間はかなり精度の高い選択をし続けることができます。
「論理だけの人間は冷たい」と思われるかもしれませんが、
べつに感情的にならなくても、人間には良心というものもあるのですから、論理的に考えつつ情緒のことも気にする、という芸当もできるのです。
感情というのは現代日本においては「娯楽」以上の意味を持たないと私は思います。
感情にまかせて相手をぶん殴って怪我させれば暴行罪で逮捕。
感情に支配されて相手をぶっ殺せば豚箱行きです。
感情のおもむくままに生徒を怒鳴りつける先生は、その場では気持ちいかもしれませんが、生徒に恨まれて将来ツケがまわってきます。
感情最優先で自分の言いたいことを通そうとする上司は、そこで成長がストップしたままです。
感情に任せるほうが都合が良いという時代も人類にはありましたが、生存が確保されている現代日本では、「感情は娯楽」です。生存のために、もはや感情は必要ありません。
たとえば、ホラー映画を見て「ギャー怖いー」とか、
プロレスの試合で「ぶっ殺せ!やっちまえ!」などと感じるのは良いでしょう。
でも、感情を議論の道具にするのはやめましょう。
それは卑怯ですし、議論がそこでストップしてしまいます。
どうすれば論理と感情の分別ができるのか
では、論理と感情をセパレートするためには何をすればいいのか?
が気になるところです。
実はそれは簡単で、
以下のことを心がけていくだけで、かなり論理と感情の分別ができるようになります。
1.「感情と論理をごっちゃにするのは、思考力が未熟な証」だとはっきり認識する
2.「データ・ワラント・クレーム」という論理の三本柱を学習する
3.読書する
1.は簡単ですね。この記事でさんざん述べてきました。
おそらく、この記事で散々あげつらってきたので、「論理と感情をごっちゃにしている人」を見た時の印象がガラリと変わっていると思います。自分はそうならないようにしましょう。
2.については、「あなたを支配下に置こうとする人の理不尽な物言いに騙されないための論理思考・超入門」に詳しく書きました。
簡単に言えば、日本人がよくやる主張の方法は
「こういうデータがある。だから、こうだ」というやり方です。
でも、「なんでそのデータから、そういう結論が導き出されるのか」という論拠がないため、簡単に反論できてしまいます。
たとえば、「こういうのが常識だ。だから、俺の言うことを聞け」に対しては、
「その常識ってどうして正しいんですか」
「常識は常識かもしれませんが、それはあなたの言うことを聞く根拠にはなりません」
といった反論(というより口答え)ができます。
詳しいやり方は「あなたを支配下に置こうとする人の理不尽な物言いに騙されないための論理思考・超入門」に書いてあるので、ぜひこちらも読んでみてください。
3.は言わずもがな。
作家や学者が世の中に自分の意見を通用させる時には「論理によって押し通す」のが普通です。
大抵の本は「こういう理由があって、だからこうです」という論理的手続きを踏まえて書かれているので、そういったものを普段から読んでいれば、論理的に考えるクセがついてくるでしょう。
また、読書をすれば、知識や反論のパターンなども同時に得られますから、より議論に強くなっていくことができます。
読書おすすめです。
まとめ + もっと頭を良くしたい人のためのおすすめ本
さて、いかがでしたか。
感情と論理をごっちゃにする人は本当に多くて、そのせいで議論が台無しになることが多々あります。
Youtubeのコメント欄とか、ツイッターの炎上とか、なんの根拠もなく感情だけで「おまえは間違っている!」と決めつける人は良く見ます。しかも、それを真に受ける人もまた多いというのも事実です。
感情ではなく、論理(と良心)を使いましょう。
これは世界を平和にする考え方だと思います。
では、グッド・ラック!
★おまけ 「頭を良くしたい人」のためのおすすめ本★
・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み切り、「ああ、この人はモノホンだ。うさんくさいのはアレだけど本物だ」と確信しました。この人の本を読むと、どんどん思考の盲点が外れて、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。感情や論理についての認識も改まります。論理思考についてもっと学びたい方は「ディベートで超論理思考を手に入れる」が特におすすめです。
以下におすすめの本を挙げておきます。
・「苫米地英人、宇宙を語る」
・「洗脳原論」
・「思考停止という病」
・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する」
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