「少食」で成功している人の例と、なぜ少食で頭が冴えるのかについての仮説

こんにちは、栗栖鳥太郎です。 今回は、「食事」について書きます。 現代人は忙しい人が多く、また家庭を持たずに独身を貫く人も増えていますから、どうしても食事が偏りがちです。 コンビニ弁当だけとか、カップ焼きそばだけとか、安いパンだけとか・・・ 「自分はこういう意図を持ってこういう食事にしているのだ」ということをはっきりと考えている人というのはほとんどいないのではないでしょうか。 今回は、「食事」のなかでも特に「少食」というものに絞って考えていきましょう。   少食な人は頭がよくなる? それとも、頭がいい人がたまたま少食なだけ? 頭が良い人は少食傾向にある 「食事って、一日にどれくらい食べるのがいいんだろう」という素朴な疑問があります。 大学生でいえば、運動系の学生はバクバク食います。 一食の量も多いですし、間食でコンビニ弁当をペロリ・・・という人もいます。その代わり、授業中はだいたいが爆睡タイム。   野球選手の場合、「もともと細めだけど、食べまくって筋骨隆々になった人」などはとてつもなく食べます。 「一般人は決してプロ野球選手と焼肉に行ってはいけない」元首位打者 鈴木尚典と一晩で7500kcal食べた話(イキクルより)とか。   スポーツでいえば、ボディービルダーや水泳選手もよく食べますね。 ボディービルダー・マッスル北村氏の増量期の食事などは衝撃的です。 手元に、「マッスル北村 伝説のバルクアップトレーニング」に収録された「ボクの履歴書」というマッスル北村氏の自伝があるのですが、それによると 「冷凍ササミにバニラエッセンスをかけてミキサーで粉砕して飲む」 「雑炊の他に全卵20~30個、牛乳2~3リットル、サバの水煮の缶詰3缶、プロテイン200~300グラムを一日のノルマにしていた」 あまりの食事量に消化が追い付かないので、消化の助けとして飲んでいた「強力わかもと」の1000錠入りのビンが一週間ももたなかったとのこと。   あとは水泳選手ですが、一日12000キロカロリーほど摂るのだとか。 ・・・とまあこのくらいにしておきますが、食事量というのはやはり、個人がなにを生業としているかによってかなり左右されるもののようです。   これを踏まえたうえで、 食事量に関して、まずはっきり言っていっておくと、 「精神的な活動がメインの人に向いているのは、食事を少な目にすることである」 ということです。 つまり、少食。   わかりやすくするために、少食な人の例を出してみましょう。   たとえば、このブログで何度も参照している苫米地英人氏は、非常に少食です。 好物はセブンイレブンの「そば」だそうで、一日二食が基本だとか。 喫茶店に入ってもカレーは半分残してしまうそうです。 「食事に一切こだわりを持たない」を実践しています。   他にも、日本屈指の社会科学者であった故・小室直樹氏は、48時間ほど絶食することがたびたびあり、その絶食の間に論文を一気に仕上げていたそうです。本人の語るところによると「水だけ飲んでりゃ大丈夫だ」とのこと。 (『宮台教授の就活原論』より)   他にも、オバマも宮崎駿も庶民的…一流の人の食事はなぜ質素なのか(日刊ゲンダイ)といった特集が組まれたりしています。ビートたけし氏、ジャパネットたかたの高田社長、タモリ氏など多くの著名人が「少食」をモットーにしているようですね。 なお、上に挙げた数々の例でもって「カロリー計算」をしてみるとその多くが明らかに1500キロカロリーを下回っていますから、一般的に言われる「成人男性は1800~2200キロカロリー必要」というのは案外アテにならないのかもしれません。少なくとも知的労働者に関しては。   少食といえばヨガの行者も思い浮かびます。 よく聞く話としては、「ヒマラヤの奥地でひたすら日々瞑想を続ける修行者たちは、家畜が食べるような雑穀しか食べない。肉も食べないし、魚も食べない」というものがあります。 実際、日本にヨガを伝えたとされる中村天風氏もやはり少食でした。   逆に、「大飯喰らいの知的労働者」というのはあまり思い浮かびません。 ↑小松左京氏くらいでしょうか。   「ノーベル賞受賞者の身長と体重」とか知りたいものですが、誰か調べてくれないかなあ・・・?   少食で頭が冴えるとすれば、それはなぜなのか では、なぜ少食は知的活動に向くのか? を考えてみましょう。 ①「食事量が少ないと、内臓にまわすエネルギー自体が減る」説 みなさんも焼肉バイキングなどで経験したことがあると思いますが、「たっぷり食べたあと」というのは頭も身体も動きません。消化にエネルギーを使うのでしょう。あるいは、消化器官に血液が集中されるのでしょう。   「昼食後に眠くなる」(実際、大学で居眠りしている人が多いのはやはり昼食後の授業です)のも、やはり内臓に血液が行くからなのかもしれませんが、これに関してはサーカディアンリズム(人間はどうも、本来は「昼ごろにもう一度眠る」ようになっているようなのです)などの問題もあるので一概には言えません。   じゃあ逆に、エネルギーを浪費するなら食べなきゃいいじゃんという発想になるわけです。 実際、昼食後の眠気に襲われないためには「昼食を軽くする」ことがとても有効ですから。   ②「食事の量が少ないと、なんらかのスイッチが入る」説 有名な研究に、「カロリー制限したサルは寿命が延びた!or伸びなかった!」というものがあります。これに関しては、異なる二つの機関がそれぞれ相反する研究結果を発表したことで話題になりました。 研究の詳細は専門の記事に譲りますが、「伸びる派」の主張としては「カロリー制限をすることによって、長寿遺伝子的ななにか(サーチュイン遺伝子というそうです)のスイッチが入るのでは」ということ。   で、最終的な結論としてはどうも 「健康な状態の維持のためには、カロリー制限が有効である。ただし、ビタミンミネラルなどの欠乏はヤバイ」というくらいのものになったようです。無難というか、当たり前というか・・・ ま、科学というものはいつも慎重なものです。逆に、「断言する科学」というのは疑った方がいいかもしれません。〇〇は身体にいい! とか。だいたい後ろにサプリ会社か食品会社が付いてます。   それは置いといて、少なくとも「毎日バクバク自分の好きなものだけを食べ続ける」という生活が健康に良くないのは明らかです。 結局、古来からずっと言われてきた 「栄養バランスの良い食事(つまり小皿の多い食事!)を、腹八分目くらいで食べる」 というのが健康にも頭脳にもいい影響を与える、ということなのでしょう。   ③「食事にかける時間をほかのことに使える」説 これも大きなメリットです。 一食に20分かかるとして、三食なら一日60分。 また、一人暮らしであれば調理の手間もかかります。5分~30分程度はかかるでしょう。   その30分の間に、もしかすると本を30ページくらい読めるかもしれないのです。 さらに、食後の「満腹タイム」「眠気タイム」によるロスもあります。 一日が24時間である以上、食事に時間を使いすぎるのはやはりもったいない気がします。   まとめ ・・・と、このように、「少食」というのは精神労働者にとってかなりメリットが大きいと言えそうです。逆に、肉体労働者やスポーツ選手であればバクバク食ったほうがいいでしょう。ただしその場合、頭のキレとか深く思考する能力といったものを自分に期待するのはやめておいたほうが賢明かもしれません。   補足ですが、少食にするさいの注意点としては、 ①いきなり少食にしないこと。たとえば体重80キロで毎日3500キロカロリーほど摂取している運動部の学生がテスト前だけ少食になろうとして一日2500キロカロリーほどにまで制限した場合、貧血になったり、脱力感に襲われたりします。一月に200~300キロカロリー程度のペースで減らしていくのが安全です。 ②少食になるぶん、食事の品目が減りがちなので、意識的に栄養バランスを整えること。要するに、小皿を多くする。マルチビタミンや各種ミネラルなど、サプリメントの摂取も考えてはどうでしょうか。 ③あくまでもデスクワークが多い人向け。肉体労働者が一日1800キロカロリー程度しか摂らないと間違いなく貧血かなにかで卒倒します。   なお、この「少食」というテーマで近日また記事を書く予定です。 お楽しみに。 では、グッド・ラック!   ★おまけ 頭をもっとよくしたい人のための本★ ・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み、「ああ、この人は本物だ」と確信しました。この人の本を読むと、どんどん思考の盲点が外れ、とらわれから自由になり、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。なぜ私が毎回毎回この人の本を紹介しているのかというと、この人の本は「きわめて応用が利く」からです。本当に役に立つし、読むことによって確実に頭が良くなると確信しているからこそ薦めるわけです。 以下におすすめの本を挙げておきます。 ・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術」 ・「現代洗脳のカラクリ ~洗脳社会からの覚醒と新洗脳技術の応用」 ・「ディベートで超論理思考を手に入れる」 ・「 「言葉」があなたの人生を決める」 ・「苫米地英人、宇宙を語る」 ・「洗脳原論」 ・「思考停止という病」 ・「すべてを可能にする数学脳のつくり方」 ・「「生」と「死」の取り扱い説明書」 ・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する」   大学教科書・専門書・医学書の買取サイト「専門書アカデミー」   ――この記事をちょっとでも面白い・役に立ったとお思いになりましたら、ぜひFacebook・はてブ・ツイッター等で共有していただければとてもうれしいです――      

「苦しいけど、恥ずかしいけど、それでもなおやろうとする」ことの意味――「森田療法」を読む

こんにちは、栗栖鳥太郎です。 今回も書評(というより、本の内容をザッと紹介するだけの)記事です。 きょう扱う本は、「森田療法」(岩井寛)という本。 森田療法という言葉を聞いたことがある人は少ないと思いますが、簡単に言えば「強迫神経症、恐怖症、不安神経症」といったいわゆる神経質な人がかかる精神的な病理を治療するために編み出された治療法です。   「神経症なんて自分とは関係ないや」と思う人も多いと思いますが、実は案外多くの人が苦しんでいます。 特に、匿名掲示板などで「○○するやつはバカ」「××しないと恥ずかしい」といった観念を植え付けられている現代人は、他人の目を気にしすぎる傾向がありますから、ぜひ「森田療法」を読んでみてください。 苦しくても、恥ずかしくても、なお「やろうとする」ことの意味――「森田療法」 森田療法とは? Googleで「森田療法」で検索をかけると、 森田療法は、高知県出身の精神医学者、森田正馬(もりた・まさたけ)によって創始された神経症の治療法です。 強迫神経症、恐怖症、心気症、不安神経症などに劇的な効果を発揮します。   つまり、神経症や、強迫的な傾向のある人に効果抜群の治療法である、と。   「強迫性障害なんて自分には関係ないや」と思われる方も多いでしょうが、 「人前に出ると、自分が赤面していることがどう見られているかが気になって、恥ずかしくて、帰りたくなる」 「自宅のカギを閉めたか何度も何度も確認しないと気が済まない」 「自分が他の人に悪口を言われている気がする」 といった傾向がある人は、案外多いはずです。   本書「森田療法」のなかにも、「手を洗い続けないと気が済まなくなった主婦」や 「自分が座っている椅子や床に〈針〉が隠れているのではないかと何度も何度も確認する婦人」 「人前に出ると手が震えることを気にしすぎてノイローゼになった銀行マン」 といった例が出てきます。   森田療法の核心 森田療法では、 「苦しいことや恥ずかしいことがあるとき、それを〈あるがまま〉にして認めておいて、 その一方で、<自分は本当は○○したい>という目的に向かうためにやるべきことをひたすらやる」 という二輪式の思考法を用います。   「あるがまま」というのはちょっと揉めるところなんですが、 森田氏の言葉を借りれば、 「当然とも、不当然とも、また思い捨てるとも、捨てぬとも、何とも思わないからである。そのままである。あるがままである。」ということです。 つまり、「放っておこうと思うわけでもなく、とらわれまいと思うわけでもなく、ただそのままにすること」になります。   そうやって神経症の症状を「あるがまま」にしておいた上で、 「自分は本当に心の底から○○したい」という〈生の欲望〉をかなえるためにやりたいことをやる、という積極的な行動をとります。   わかりやすくするために例を出すと、 たとえば「人前でしゃべると赤面してしまうのが恥ずかしくて、会議やミーティングで発言できない」という人がいたとします。   まずこの人がやるべきなのは、 「人前でしゃべると赤面してしまって恥ずかしい」という症状を「あるがまま」に受け止めることです。 「人前で話すと顔が赤くなるのはしゃーないよな。なるのが当たり前。緊張しない人なんていない」という感じで。「恥ずかしい。自分は人間としての価値がない」といった余計なとらわれを自分に持たせないように努力するというわけです。   そうやって「あるがまま」に受け止めようとしたうえで、 「いや、自分が本当に心の底からやりたいのは○○だ。○○するためには、たとえ苦しくても、恥ずかしくても、人前でしゃべる必要がある」 という心機の転換を試みることです。 そして、その不安が残っていることを自覚した状態で、「○○したい」という生の欲望に従って、人前でしゃべるということを選択するということになります。   これが普通の思考法と違うのは、「一度きちんと苦しみ・恥ずかしさを認めたうえで、それでもなお○○したいという生の欲望に従う」という点です。 通常であれば、「苦しくても根性だ」とか、「苦痛を超えたところに栄光がある」といったように、自己の中に生じてくる苦しみ・恥ずかしさを悪いものとして扱うのですが(世の中に出回っている名言集なんかはまさにそのスタイルです)、森田療法ではそういった判断を下すことなく、「あるがまま」にしておきます。 そして、「苦しみ・恥ずかしさは、あるものはあるで仕方ないけど、それでもなお○○することを選択する」という受容⇒積極的という心の転換をするのです。   この「あるがままに認める=一度認めてあげて、それでも○○したいという心機の転換をする」というプロセスが森田療法の核心です。一度認めるぶんだけ心がとらわれから解放されます。さらに、とらわれから解放された心に「こっちに行こうね」という方向づけをしてやるのです。これによって心のコントロールがうまくいきます。   神経症を発症する根本はなにか? ここまで神経症を森田療法でどう治すかというテーマで書いてきましたが、ちょっと自分なりの考察をしてみたいと思います。 そもそも、「神経症を発症するのは、おそらく人間だけである」はずです。   ヒステリーになったライオンや、強迫性障害になったゴリラ・・・という例を、私は寡聞にして知りません。 ということは、神経症というのは「人間が社会的動物である」ということにそもそもの原因があるのではないでしょうか?   社会的動物である人間が一体なにに影響を受けるかといえば、 「社会の常識」 「周囲の人の持論」 「親に言われたこと」 「みんなが言っていること」 「ネット上の意見」 などでしょう。いずれも社会によってインプットされるものです。   本来であれば上記のいずれも「もともと自分の意見ではない」のですが、 親しい人に言われたり、自分が信頼を置いている媒体によりインプットされることによって、 その外部表現が内部表現のなかに同化されます。 つまり、他人の意見が自分の意見に影響を与えるわけです。   神経症傾向のある人は 「自分の醜態を見て、ほかのみんなが笑っている」 「自分は恥ずかしい行動をした。価値のない人間になってしまった」 といった強迫性の観念にとらわれているわけですが、 これらの観念のモトをたどってみれば、 「○○するのは恥ずかしい」 「××なヤツは価値が低い人間である」 といった社会的な刷り込みがあるのです。   社会的に学習すること自体は人間にとって不可欠なことですから否定はできませんが、 もしあなたがある物事に関して「恥ずかしい」とか「恐ろしい」とか「怖い」といった感情を抱いたときには、 「待てよ、これは自分自身の意見じゃなくて、もともとは社会的な常識が取り込まれたものにすぎないよな」 という反省を行ってみることをおすすめします。   そうすると、自分がいかに「自分の頭で考えたつもりになっていたか」がわかりますし、 自分がいかに「社会的な常識とされているものを無批判で受け入れていたか」がわかります。   「社会の常識は無条件で受け入れるべきだ!」と言う人もいるかもしれませんが、 その「社会の常識」というのがもしかすると「毒」かもしれないのです。   「世間の常識だから・・・」「そういう風潮があるから・・・」という理由で自分の考えを変えてしまう人は、 もしヒトラーのような指導者が出てきて「○○人を許すな!」という社会的風潮を作り出したとき、容易にそれに加担してしまう危険性があるのでは? と思います。   まとめ + とらわれから自由になりたい人のための本 さて、いかがでしたか。 この「森田療法」についてかなり大ざっぱにまとめれば、 「苦しいことや恥ずかしいことがあるとき、それを〈あるがまま〉にして認めておいて、 その一方で、<自分は本当は○○したい>という目的に向かうためにやるべきことをひたすらやる」 という原則のもとに展開されるものといえます。   この思考法は、とても有用なものだと思います。 というのは、たいていのことは「つらいから」「苦しいから」という理由で中断されてしまうからです。 その「つらい」「苦しい」「恥ずかしい」といった情動への耐性を上げるためにも、森田療法の思考法は非常に有意義なものだと思います。ストレスの多い現代人にとって、非常に便利な薬になるはずです。   この思考法をうまく使って、もっともっと自分の本当にやりたいことを追求していってください。 では、グッド・ラック!   ★おまけ 「とらわれから自由になりたい人」のためのおすすめ本★ ・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み切り、「ああ、この人はモノホンだ。うさんくさいのはアレだけど本物だ」と確信しました。この人の本を読むと、どんどん思考の盲点が外れ、「とらわれ」から自由になり、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。私がこのブログで言っていることの大半は、この人の理論を応用して考えたものです。 以下におすすめの本を挙げておきます。 ・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術」 ・「ディベートで超論理思考を手に入れる」 ・「苫米地英人、宇宙を語る」 ・「洗脳原論」 ・「思考停止という病」 ・「すべてを可能にする数学脳のつくり方」 ・「「生」と「死」の取り扱い説明書」 ・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する」   大学教科書・専門書・医学書の買取サイト「専門書アカデミー」   ――この記事をちょっとでも面白い・役に立ったとお思いになりましたら、ぜひFacebook・はてブ・ツイッター等で共有していただければとてもうれしいです――  

「そもそも、音読で頭が良くなるのはなぜなのか」を考える

こんにちは、栗栖鳥太郎です。 今回は、このブログでも何度か触れている「音読で頭がよくなる」というテーマを扱います。 何度も何度も「根本的に脳みそを変えたいなら、音読すりゃ良いよ」と言ってきましたが、そもそも、音読で頭が良くなるのはなぜなのか? 本当に頭が良くなっているのか? このあたりについては書いたことがなかったと思います。 そこで今回は「音読は脳にどう作用するのか」を理屈で考えてみます。といっても私はプロの脳科学者ではありませんから科学的な話をする訳ではなく、経験と、知っている限りの知識を総動員させて考えることにします。 音読で頭が良くなるのはなぜなのか 人間の脳がいちばん強く速くなるのはおそらく「限界速度で複雑な運動をすること」であり、音読はその典型 人間の脳には可塑性があります。 可塑性があるとは、変形変更を加えることができるということです。脳は一度決まった形から不変であるわけではないのです。 脳の性能については、先天的遺伝的に決まっている部分ももちろんありますが、それよりも、後天的に意識的に鍛えることのほうが重要です。脳はトレーニング次第で際限なく強く速くしていくことができます。百メートル走の選手が、遺伝的に優れているだけでトレーニングを全くしない一般人に負けることがまずないのと同じです。   したがって、脳を後天的に鍛えるためには何をすればいいか? が重要になるわけです。 そこで「脳を鍛える」ためにはなにがベストなのかという話になります。   私が言いたいのは、まず 「脳がいちばん強く速くなるのは、限界速度を超えるつもりで複雑な運動をすること」 であるということです。   「頭の回転の速度」というのは、鍛えない限り高速化されてはいきません。「もっと速く!」という指向性を持っている人の脳と、「この程度でいいかな」と言って限界突破を試みない人の脳との間には、かなりの差が開いていきます。   この「速度を上げること」に加えて、もうひとつ「複雑な運動をこなす」ことも同時並行してやると、脳に最高の負荷がかかります。 少なくとも現時点では、この「限界速度を超えるつもりで複雑な運動をする」こと以上に脳に負荷がかかるものを私は知りません。そうやって脳に負荷をかけてやると、最初は辛くとも、段々適応してきます。脳の可塑性です。 限界速度を超えるつもりで複雑な運動をすることで脳に負荷をかけ続けると、そのうち「思考速度が速く」なり、かつ「精密に考える」ことができるようになります。こうなれば占めたものです。   そして、音読というのはこの二種類の負荷をかけるのにもっとも適した方法なのです。たとえば、「高速音読」であれば、限界速度を更新するのはもちろん、複雑さも十分確保されています。「複雑なことを高速で処理する」原則にかなっているわけです。 しかも、音読というのはいくらでも時間がある限りできますから、量をこなすことも容易なのです。1時間ずっと高速音読しつづけてから執筆作業に入るということもできます。   総括します。 脳は負荷をかけてやらないことには強くなりません。逆に、負荷をかけてやることによって脳の能力は確実に上がっていきます。 そして、その負荷をかけるときの手段として最高なのが「高速で複雑なことをこなす」ことであり、これには高速音読がうってつけである、ということです。   人間の思考の基礎は「言語」 音読は言語野と前頭前野に強く働きかけます。 音読すると、多くの人(特に内向的で、人としゃべる機会に乏しい人ほど)が、「人としゃべるときに、言葉がすらすら出てくるようになった」と感じます。   これは、音読が「言語野と前頭前野」を強く刺激し開発するために起きることです。音読によって、脳の中にある「言語を操るためにある部位」が総動員されるのです。 脳は使えば使うほどそれに応じて適応していきますから、音読をよくする人(音読に準ずるものとしては、他人とのおしゃべりも挙げられますが)は、言語を使うことにどんどん長けていくということになります。   そして何より、私たちが思考するとき、かなりの割合を「言葉」に頼っているという事実があります。 言語を持たない動物は貧弱な思考力しか持ちませんが、人間は言語という思考のためのツールを持っているがゆえに、複雑で抽象的なことであっても難なく思考処理できるのです。   つまり、思考の基礎が言語であるということは、その言語運用能力をダイレクトかつ効率的に劇的に改善することができる音読という勉強法こそが、「思考力を上げるための最良の手段」であると言えるのです。   限界速度が上がると、通常速度も上がるので、普段の生活が相対的にスローになる 音読は「深く物事を考えることはできるんだけど、とっさの反応が鈍いせいで、よくおしゃべり終了後に“ひとり反省会”をする羽目になる」ような人(内向的な人ほどこの傾向が強い)に劇的な変化をもたらす可能性があります。 なぜなら、そういう人は「とっさに頭をパーっと回す瞬間速度」を鍛えればいいからです。深く考えることはできている(つまり、精密に思考することはできる)のですから、あとはスピードの問題でしょう。深い思考を驚異的な速度でこなすことができれば、鬼に金棒です。   で、その「思考の基礎速度」を上げるために最適なのも、やはり音読であると私は思います。 音読(特に高速音読!)では、思考の限界速度がガンガン上がっていきます。「限界速度を上げる」というトレーニングを続けていると、思考の基礎速度もあがっていきます。 「100メートルを限界速度で駆け抜ける」というトレーニングを積み重ねた100メートル走のトップランナーが7割で走るのと、一般人が全力で走るのとが同じ速度になるのとおなじです。「限界速度」の高い人ほど、「平常運転速度」も上がっていきます。   よく「かつては内向的だったが、今は必要に応じて外向的にふるまうことができる」というタイプの人がいますが、この場合はまさに「思考の基礎速度が上がった」ケースが大半なのです。そして、かつて内向的だった(つまり、深い思考に慣れていた)ぶん、いざ外向的にも振る舞えるようになると、他の人が及びもつかないような頭の回転速度を発揮するようになる、ということです。   音読で本当に頭は「よくなって」いるのか? ここまで、「音読で頭はこう変わる」という話をしてきました。 この記事で取り上げたことだけを列挙しても、 ・高速で複雑に思考できるようになる ・言語能力の向上=思考力の増強 ・日常の基礎生活速度が上がる=頭の回転が速くなる といったメリットがあります。   ここで、音読をする意義をより深く理解してもらうために、「希少価値という尺度」についての話をしておこうと思います。 考えてみると当たり前のことなのですが、一般的に、「できる人が多いことは、買い叩かれるか、高く評価されない」という原則があります。 たとえば、コンビニの店員の時給がなぜ安いのかを考えてみると、それは「マニュアルを覚えたらだいたい誰でもできるから」でしょう。誰でもできるということは、希少性が低いということでもあります。希少性が低い=誰でもできるということは、買い叩かれるということに直結します。 これは裏を返せば、「希少性が高ければ、高く評価される」ということです。 ここでなにが言いたいかというと、「音読で能力を伸ばせば、あなたはどんどん希少性が高い方へとシフトしていきますよ」ということです。 というのも、「高速でやる」「大量にやる」「創造性を出す」「深く考える」といった能力は、音読で効率的にのばすことができるからです。どう伸びるかはこの記事で見てきた通りです。   世の中のことを考えてみればわかりますが、「頭が良い」というのはなかなかの希少価値です。頭がよくなることは難しいですから。逆に、「頭が悪くなる」のは簡単です。誰でもできることですから。   なお付言しておくと、希少性を高めるためには主に「大量にやる」「高速でやる」「抽象度を上げる」「エントロピーを減少させる」「快楽を増やす」「うまい表現を見つける」「苦痛を減らす」「ポジティブな感情を引き起こす」といった方向性が考えられます。いずれも「人の役に立つ」ものでもあります。     ここまで述べてきたように、音読というのは広い意味であなたの人生を豊かな方へと持っていく力があります。ぜひ音読というツールを使って、人間の奥深さを探求していってください。

「野球の練習・試合では声を出さねばならない」という常識を疑ってみる

こんにちは、栗栖鳥太郎です。 今回は、「常識を疑う」を実践します。具体的なテーマを取り上げて、一緒に疑ってみましょう。 私は野球をやっているので、今回取り上げるのは「野球の練習・試合では、声を出さねばならない(声出しすべき)」というテーマです。 一緒に、ケーススタディ方式でやってみましょう。 「そうか、常識はこうやって疑うのか」というのがわかると思います。 「野球の練習・試合では声を出さねばならない」という常識を疑ってみる ⓪野球界の現状 私は(一応)大学野球選手ですし、野球関係の本もよく読みますから、「野球界では、声出しというものはどのように考えられているのか」についてはかなり知っている方だと思います。 ですから、まずは野球界の現状を知ってもらいましょう。   まず、野球界で一般的に「声」と呼ばれているものは、野次を除けば、 ①個人が気合を入れるための声 ②集団が一体となるための声 ③プレーに対する指示の声 ④選手を鼓舞したり、励ますための声 ⑤相手を圧倒するための声 ・・・といったものが主でしょう。 たとえば、①は有名な「バッチコイ」的な声ですし、②は集団でランニングするときの「1,2、3,4」といった声です。   さらに、「野球界で、声出しというものはどのように評価されているか」については、 ①声が良く出ているチームは雰囲気が良いとされる ②練習中の「声」が少ないと、活気のない練習とされる ③声が小さいと、「声出てないぞ、声出せ」と言われる ということが言えます。   具体的に言えば、北海道勢として初の甲子園制覇を果たした駒大苫小牧高校では、相当「声」が重視されていました。的確な指示の声を中心として、選手たちは積極的に声出しを行っていたようです。高い声の方が通りやすいということで、選手の多くはわざと高い声で指示を送り合っていたとか。 また、その駒大苫小牧高校の監督であった香田誉士史さんは、花巻東高校と練習試合をした際に、花巻東高校のベンチの雰囲気が良かったため、自チームの選手たちに「あの雰囲気を見習え」と言っていたそうです。   このように、野球界では「声が出ているのはいいことだ」「声が出ていないのは悪い状態だ」という判断がされています。 では、本当に「声出しはいいことだ」と言い切れるのでしょうか。 じっくり考えていきましょう。   ①脱常識する前に、まずはゴールを設定する ゴールという目標地点がない限り、物事の判断というのはしようがありません。 判断基準がない限り、ある物事について評価を下すことはできないのです。 そこでまずは、「ゴール」を設定します。   ゴールについてはこのブログで何度か触れていて、いろいろ言いたいことがあるのですが、ここではあえてシンプルに、   A「チームに所属する選手が、社会的に通用するための素養を身に付ける」(指導者目線) B「個人が上達する」(個人目線) C「チームが試合で勝利する」(チーム目線)   という3つのゴールを設定します。 この3つのゴールを達成するためにベストを尽くせば良いわけで、その過程で不要な常識は次々と脱ぎ捨てられていきます。   ②ゴール達成のために、本当に「声出し」は必要か? まず、A・指導者目線から「声出し」を考えます。 「選手が社会的に生きていけるだけの素養を身に付ける」というゴールのためには声出しが必要かどうか?   社会的に生きていくうえで必要なのは、ずばり「相手とコミュニケーションが十分にとれる」という能力でしょう。対人関係をきちんとできる能力があれば、たいていのことはなんとかなります。   そのコミュニケーションをとるためには、 はっきりとした声で、 十分相手に聞こえる声量で、 自分の言うべきことをはっきりと言える・・・といった条件が考えられます。   こういった条件を満たすために、普段から野球のグラウンドで「コミュニケーション手段としての声を出すこと」を練習しておくのは、悪いことではなさそうです。自分の言うべきことを言ったり、相手に指摘して気付かせたり・・・といった経験を積み重ねていれば、社会に出ても引き続きやっていけるでしょう。 つまり、とりあえずA指導者目線では、声出しは必要だと言えそうです。     次に、B個人目線ではどうでしょうか? 個人の上達のために声出しはすべきでしょうか?   これに関しては、「個人が上達するためには、声出しはいらない」と考えるのがよさそうです。 というのも、ひとりで黙々と素振りしているときには大声で叫びませんし、集中して技術習得するときにもやはり黙っているはずです。声を出すと余計なエネルギーが流出するので、静かにやるべきでしょう。   最後に、C集団目線・試合に勝つために声出しは必要かどうか? これについては、「試合に勝つために役に立つ声出し」と、「役に立たない声出し」に分けることができそうです。たとえば、先ほど例示した ①個人が気合を入れるための声 ②集団が一体となるための声 ③プレーに対する指示の声 ④選手を鼓舞したり、励ますための声 ⑤相手を圧倒するための声 のうち、試合で勝つために必要なのは主に「③、④、⑤」ではないかという見当が付きます。 試合中に必要な声はこの二つが主で、あとの①、②は試合ではあまり必要ないと考えられそうです。   以上、かなり簡略化して述べたのでいろいろツッコミどころがあると思いますが、この節で述べたことはかなり限定的なので、あくまでも「こういう風に考えることができるんだな」という一例としてとらえてください。実際にはもっと込み入った形で考えることになります。   ③ディベートの論理思考テクニックを使って考える さらに詰めて考えましょう。 ここでは「C試合に勝つために」というゴールだけに絞って考えます。   この場合、「試合に勝つ」という目的のもとにあらゆることが組み立てられるべきです。試合に勝つために必要ない声は排除されるべきですし、必要とされるのは「チームが試合に勝つために必要な声」だけです。   たとえば、「ベンチにいる選手が声を出すべきだ」という命題は、C試合に勝つためにというゴールのもとではどう判断されるのか? ということをちょっと考えてみます。 ベンチにいる選手は声を出すべきだ、とよく言いますが、本当にそうでしょうか。   まず、ベンチにいる選手がチームの勝利のためにすべきなのは ①自分自身が出場することになったときにベストプレーができるように準備すること ②試合に出ている選手のサポート この二つだけです。   まず、ベンチで声を出したからといって自分が試合でベストプレーができることにはなりません。むしろ、静かに考えを巡らせて、「自分がもし出るとしたら、こういう場面だろう。そのためにこういうことを考えておこう」という思考を十分に済ませておくべき。集中して考えるときに声出しは不要。声を出している間は集中して考えることができない、ということになりますね。 この場合、声出しに気をとられて自分の準備がおろそかになれば、チームの勝利というゴールから外れることになります。したがって、選手個人の準備というレベルで考えると、むしろ声出しは悪ということにもなります。声を出す余裕があるのなら、自分がチームの勝利のためにできるプレーを想定しておくべきです。   また、②についていえば、「ベンチにいるメンバーの声にサポートされて」とか「ベンチで声を出して試合の流れ・雰囲気を作っていく」とも言われますが、これも怪しいでしょう。   まず、 ①試合の流れを作るのは試合のスコアや出塁の頻度やプレーの良否が主であって、ベンチの声というのはほとんど影響しない。ベンチの声が出ているから雰囲気が良いというより、雰囲気が良かったり勝ち切れる自信があるからこそ声が出るのでは? また、「悪い状況にこそ声が出るのが強いチーム」と言われるが、劣勢の場合は声を出すことよりも、集中して相手を攻略する方法を熟考すべきではないか。集中して考えるときに声出しは不要 ②グラウンドにいる選手と、ベンチにいる選手との間に温度差がある場合がある。ベンチで盛り上がっていてもグラウンドにいる選手にそれがダイレクトに伝わるかどうかは怪しい   ・・・というわけで、いわゆる「声出し」というのは、試合に勝つという目的のためには必ずしも必要とは限らないといえそうです。 ここまで考えてきたように、常識というものは必ずしも根拠があるとは限りません。   声出しということはあくまでも手段であって目的ではありません。 「チームの勝利のために声出しをする」というならまだわかりますが、 「声出しをするからチームが勝つ」というわけではないのです。 ↑のように、「因果関係を逆転させてしまっていないか?」というチェックを入れたり、「手段と目的がひっくり返っていないか?」と確かめたりすることで、より判断が確実になります。   また、一見強固に見える常識であっても、「事実・論拠・主張」の三本柱がそろっていないということが往々にしてあるのです。ここらへんのことは、過去の記事「あなたを支配下に置こうとする人の理不尽な物言いに騙されないための論理思考・超入門」に詳しく書きました。常識を疑うときにも使えるテクニックですから、ぜひ参考にしてみてください。   ④脱常識したら、足跡を振り返ってみる ここまで述べてきたように、「声を出せ!」という野球界の常識は必ずしも正しいとは限りません。 強いチームが声を出しているから・・・という人もいますが、強いチームが声を出しているからといって自分たちも必ず声を出すべきだとは限りませんし、そもそも強いチームが声を出さずに黙々と各々自分のできるベストを静かに遂行している方が脅威かもしれません。 あくまでも「声を出す」というのは、「○○のために声を出す」という手段の形で用いられるべきものであって、目的にはなりません。「声が出てないからダメ」といった判断をしている時点で手段と目的が逆転しており本末転倒です。   ・・・とここまで考えてきましたが、この程度まで考えてやれば十分に脱常識が成功しています。 たとえ検討の結果もとの常識を採用することになったとしても、一度十分に考えたうえでの判断ですから大丈夫です。常識を何も考えずに鵜呑みにしている状態よりははるか先を行っています。   そして、「よし、脱常識できたな」と思ったら、脱常識したプロセスを振り返ってみましょう。 ゴールを設定して、そのゴールを達成するために必要なものだけを残して、論理的に考えてつじつまのあわないものははじいて・・・という足跡をもう一度確かめると、自分がいかにいままで常識という実体のないものに縛られて生きてきたかがよくわかります。   また、脱常識に成功すると、「そうか、やっぱり同じことを考える人がいるんだ!」とか、「そうか、あの偉人や成功者が言っていたことの意味はこれだったのか!」とわかるときがかならず訪れます。その瞬間はとても気持ちがいいものです。病みつきになります。 今回の野球の例で言えば、私はずっと「キャッチボール中に声を出すのはおかしいよな。集中して練習しろというのに、声を出してたら上達速度が鈍くなるんじゃないの」と思っていたのですが、桑田真澄氏が「キャッチボール中に声を出すのはおかしい」と言っているのを聞いて、「やっぱり! 同じことを思ってたんだ」とプチ感動しました。   最後に一言。 なにかの道の成功者というのは、たいていが脱常識に成功しています。高いゴールを目指してやっていれば必然的に、それまで頼っていた常識の殻を打ち破る必要があるからです。   まとめ + 脱常識に成功したい人のための本 さて、いかがでしたか。   今回述べてきたように、「常識」とされていることが実は根拠薄弱で、 唯一根拠らしきものを探しても「過去にこれでうまくいったから」「すごい人・すごい集団がやっているから」「あの人がこうやれっていうから」といった根拠にもなっていない根拠しか存在しないことが多いのです。しかも、それが当然のことのように、権威あることのような顔をしてまかり通っている。   まだまだ日本社会(今回の記事では野球界)は常識に凝り固まっています。 常識というより、偏見とか悪習と呼ぶ方が良いかもしれません。 論理というフェアな道具を使わずに、ただなんとなくこれがよさそうだと思うからそうする・・・という方法をやっている限り、大した進歩はしません。 この記事を読んでいる人はぜひ、論理的に「脱常識」に成功していただきたいと思います。   では、グッド・ラック!   ★おまけ 「脱常識したい」人のためのおすすめ本★ ・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み切り、「ああ、この人はモノホンだ。うさんくさいっていう人もいるけど、論理で考えると本物だな」と確信しました。どんどん思考の盲点が外れて、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。すべて「事実」をもとにした「論理」でモノを言ってくる人ですから、読むだけで論理的に考える力が付くことも間違いありません。この人の本を読んでいるうちに、どんどん脱常識に成功していくこと請け合いです。ぜひ読んでみてください。   以下におすすめの本を挙げておきます。 ・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術」 ・「ディベートで超論理思考を手に入れる」 ・「苫米地英人、宇宙を語る」 ・「洗脳原論」 ・「思考停止という病」 ・「まずは親を超えなさい!」 ・「すべてを可能にする数学脳のつくり方」 ・「「生」と「死」の取り扱い説明書」 ・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する」   大学教科書・専門書・医学書の買取サイト「専門書アカデミー」   ――この記事をちょっとでも面白い・役に立ったとお思いになりましたら、ぜひFacebook・はてブ・ツイッター等で共有していただければとてもうれしいです――  

たとえば「宇宙史上最強を確信する田中君」はどんな状態でいられるのか? 自己肯定感の高さを考える

こんにちは、栗栖鳥太郎です。 今回は、日本人が低いと言われる「自己肯定感」について書きます。 自己肯定感とは要するに、「自分というのは○○がデキる人間だ」「自分がやらなきゃ誰がやるんだ」といった、自分に対する絶対的な確信のことです。 「自己肯定感が低いほどふがいない人生を歩む」と言われますが、実際その通りであることは、本記事を読んだうえでその逆のパターンを考えてみればよくお分かりになるだろうと思います。 「自己肯定感が高い人」はどんな状態でいられるのか? 仮にあなたが「自分は宇宙史上最強の人間であると確信している」とすると... ここで、話をわかりやすくするために、 「自分は宇宙史上最強の人間である」 と確信している人のことを考えてみます。 実際には、こういう人間にはめったにお目にかかれない(角川春樹氏などがその稀有な例)のですが、その理由としては   ①すでに精神病院か刑務所に入っている ②何らかの分野で圧倒的な結果を出しているため、一般人の近くには下りてこない ③そもそも心の中でそう確信しているだけで周囲には言っていない   の3つのうちどれかでしょう。角川春樹氏は檻の中に入ったり(①)、出版業という分野で圧倒的な結果を出して(②)いながら、③に当てはまらないという意味でとても希少です。こないだ「現代の世界には自分の相手になる武道の人間がいなくて、自分の相手になるのは宮本武蔵だ」って言ってました。   もしかしたら、あなたの知り合いのなかにもそういう人が隠れているかもしれません。 やたらアクティブでヘコたれない友人のA君が心の中だけでそう思っているかもしれません。 周囲にまったく合わせず、いつもわが道を進んでいくカッコイイB先輩がそういう人なのかもしれません。   ストレスが非常に少ない 「自分は宇宙史上最強の人間である」と確信している人、これを仮に田中君としましょう。とくに意趣はありません。 「宇宙史上最強の人間である」ということは、レオナルド・ダ・ヴィンチよりも、ナポレオンよりも、イノケンティウス3世よりも、安倍晋三よりも、デイビッド・ロックフェラーよりも、イチローよりも、マイク・タイソンよりも、上にいる人間だということです。田中君はそのくらいの自己肯定感を持っています。   最強とはどういう点で最強なのか、どうやって上下を決めるのかは別として、少なくとも田中君の中では「これまで宇宙に存在したあらゆる人間の中でもっともすごい人間である」という確信があるわけです。   すると当然のことながら、「自分は何者でもないんじゃないか。歴史の1ページに載るような人間ではなくて、ただの名もない一個人として生涯を終えるんじゃないか」というストレスはまったくないわけです。田中君は世界最強にして唯一無二の存在ですから、何かしらで圧倒的な成果を出して歴史に名を残すはずです。 さらに、「世間や同僚・先輩後輩・家族にどう思われているかが気になる」こともないわけです。他人に認められるかどうかという思いはまったくありません。自分が世界最強であることは自分で確信しているので、他人に何かドリームキラーめいたことを言われても「お前全然わかってないな」というくらいなものです。他人に依存する必要はありません。   現代人はこの二種類のストレスに相当苦しめられているように見えますが、「自分は宇宙史上最強の人間である」という確信を持っている田中君にとってはなんでもないわけです。こうして見ると、「いかに自己肯定感を高く保つことが重要か」がよくわかります。自己肯定感の下がらない人はストレスに無縁です。   たとえば、満員電車で蒸し暑い中ぎゅうぎゅう詰めになっていても「宇宙最強の人間はこのくらいのことを気にするわけがない」という思考回路になるでしょう。 「宇宙最強であると自信を持つ人は、傲慢になるのでは」と思うかもしれませんが、おそらく宇宙最強の田中君は他の人にきちんと接するはずです。なぜなら、理屈で考えればわかりますが、他人と敵対するのと親和するのとでは自分の利益にかなり差が出てくるからです。弱者であろうと強者であろうと、かならず敬意を持って接するでしょう。推測ですが、田中君が本当に宇宙史上最強であれば、人間のみならずあらゆる生物、あるいは無生物に対して優しくあり続けるはずです。   何にでも何度でも挑戦し続ける 「自分は宇宙史上最強の人間である」と確信している田中君は、自分が心の底からやりたいと思ったことを、誰よりも高いレベルで追及しようとします。他人にどう引き止められようとも、自分にとって本当に価値のあることだけをやろうとするはずです。 当然ですが、宇宙史上最強の人間である田中君にふさわしいのは「宇宙一」です。何をやるにしても宇宙一というレベルでなければ田中君の心は満足しないのであり、実際田中君は、自分はその水準を満たすことのできる人間だと確信しています。宇宙一ということは、人類のなかで一番すごいのはもちろんのこと、仮に○○星人が攻めてきたとしても完膚なきまでに打ち負かすレベルです。   宇宙史上最強の人間である田中君は、自分の本当にやりたいことのみに挑戦し、飽くなき向上心と宇宙最強の克己心を持って邁進します。   たとえば田中君が野球にのめり込んだとしましょう。 田中君はそれまで帰宅部でしたが、「野球がやりたい!」と心の底から思いました。 田中君にふさわしいのは「宇宙一の野球選手」という水準です。宇宙一ということは、NPB(日本プロ野球)だけでは飽き足らず、もっと世界中から野球の腕に自信がある人間が集うMLB(メジャーリーグ)でトップであり続けるくらいが「最低のライン」です。それまで帰宅部だった田中君が急に野球に打ち込み始めたので、 周囲は当然「どうしたんだ」「プロにでもなるつもりなのか、いままで帰宅部だったくせに」という反応。 しかし、宇宙一ん野球選手になるという高い未来のゴールを持っている田中君からすると、むしろ帰宅部だったことは「帰宅部である状態からここまでこれた」という自己能力証明以上のなにものでもありません。   このくらい高い目標を持っている田中君は、尋常ではないほど考え抜かれた努力を断行しながら、既存の価値観を次々とぶち破りながら進んでいくはずです。誰よりも考え、考えたうえで最高の質の練習をこなし、あらゆることに気を配り、決して満足することのない向上心に導かれて進んでいくはずです。   ただ「将来はプロ野球選手になりたい」とだけ思っている普通のアマチュア野球選手と、いったいどれほどの差がついていくことでしょうか。宇宙一が自分にはふさわしいと思っている人には、世界がまったく違ったものに見えているはずです。   生物学的な肉体の衰えにより野球を引退することを決めた田中君(もしかしたら60歳くらいまでは現役をやっていたかもしれません)は、セカンドライフとして「宇宙一のクリエイターになる」ことを決めました。クリエイターとはつまり、音楽・小説・絵画・彫刻・なんでもござれの創作者です。肉体の世界を極めた田中君が次に目指したのは、精神世界の追及だったということです。 「お前、これまで野球ばかりやってきただろう。いまからクリエイターなんて無理無理」という周囲の反対をねじ切って、心機一転、宇宙一のクリエイターとしてあるための猛勉強を始めました。最初のころはもちろんイマイチかもしれませんが、イマイチである状態というのは、田中君にとっては「うまくなるまでのタイムラグ」にすぎません。すさまじい宇宙一の努力の果てに、とうとう世界的なクリエイターとして世界の中心人物の一人になります。   ・・・そして最後にはおそらく、「次世代を教育すること」「自分の人生を総括すること」あたりにのめり込むはずです。哲学を極め、肉体を超越し、これからの世界を担っていく後進たちを育てながら、自らも未だ第一線で活躍し続ける。そして、多くの人に「今世紀で最も偉大な人物の一人」と惜しまれながら、本人は「いや、今世紀で、じゃなくて宇宙史上で、だよ。宇宙一にふさわしい最高の人生だった」と思いながら目を閉じるでしょう。   圧倒的な自信と風格、そして哲学 「自分は宇宙最強の人間である」と確信する田中君のモノの見方は、普通の凡人たちとは一線を画していたはずです。宇宙一には宇宙一の視線の高さがあります。田中君の一言一言がそのまま哲学になります。   宇宙一であるという自信の高さも見逃せません。 宇宙一であるという確信を持たない人であれば「ここまでか・・・」と折れるようなところでも、田中君は「いや、ここからどんでん返しするのが宇宙一だろう」とどこ吹く風。 自分に確信を持っている田中君には、オーラというか、他の人をやさしく包み込むような雰囲気があることでしょう。     素朴な疑問①:その自己肯定感って下がらないものなの? ここで、「自分は宇宙史上最強の人間である」と確信することについていくつかの疑問があると思いますので、お答えしておきます。   まずは、「宇宙一っていうけど、その自己肯定感って下がらないの?」という疑問。 宇宙一の野球選手だった田中君といえど、全打席ホームランを打ち続けることはできませんでしたし、肉体的な衰えから引退せざるを得ませんでした。通常であれば「自分はここまでだ」という見切りをつけるところです。   おそらく、下がりません。 まず「自分は宇宙史上最強の人間である」という認識が第一に確立されているので、その認識を守るようにして思考が組み立てられます。たとえ「お前は宇宙最強ではない」と言われても、「お前はなにもわかっていない」「これから宇宙最強になっていくんだ」くらいの反応でしょう。 あるいは、「○○では宇宙最強ではなかったかもしれないが、人間として宇宙最強であればそれでいい」といった風に視野を広げてやるといいと思います。   「それって妥協ではないの?」と思われるでしょうが、本人としては「宇宙史上最強だから、変なこだわりは捨てるのだ」などと考えるはずです。まず「宇宙史上最強だから」というのが前提としてあるので、崩れません。     まとめ + 圧倒的な自己肯定感を高めたい人のための本 さて、いかがでしたか。 今回は、「自己肯定感」についてわかりやすくするために、かなり極端な例を出しました。 極端な例ではありますが、「実際にこういう思考をすれば、こうなるよ」というのは示すことができたように思います。   「自己肯定感が弱い」と悩む人は、ぜひ田中君のように「自分は宇宙史上最強の人間である」くらいのことを思うようにしてみてください。心の中でそう思うだけで全世界に発表するわけじゃないんですから、いつでもできます。やってみると効果がわかりますから、ぜひ。 では、グッド・ラック!     ★おまけ 「自己肯定感を高めたい」人のためのおすすめ本★ ・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み切り、「ああ、この人はモノホンだ。うさんくさいっていう人もいるけど、論理で考えると本物だな」と確信しました。どんどん思考の盲点が外れて、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。すべて「事実」をもとにした「論理」でモノを言ってくる人ですから、読むだけで論理的に考える力が付くことも間違いありません。   以下におすすめの本を挙げておきます。 ・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術」 ・「ディベートで超論理思考を手に入れる」 ・「苫米地英人、宇宙を語る」 ・「洗脳原論」 ・「思考停止という病」 ・「まずは親を超えなさい!」 ・「すべてを可能にする数学脳のつくり方」 ・「「生」と「死」の取り扱い説明書」 ・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する」   大学教科書・専門書・医学書の買取サイト「専門書アカデミー」   ――この記事をちょっとでも面白い・役に立ったとお思いになりましたら、ぜひFacebook・はてブ・ツイッター等で共有していただければとてもうれしいです――  

なぜ本当に頭の良い人は、何事もテキパキと片づけられるのか?「生きる速度」のはなし

こんにちは、栗栖鳥太郎です。 私は小さいころから、偉人の伝記や、凄い人の逸話が好きで、よく読んでいました。 その中でずっと、「世の中には、信じられないほど凄い人がいるみたいだけど、その人たちは普通の人と何が違うのか?」を考えてきました。最近で言えばマッスル北村氏とか苫米地英人氏や中村天風氏、野球で言えばイチロー選手や榎本喜八氏、高畠導宏氏といった人々が思い浮かびます。 特に、「凄い人々のなかでも、すぐれて頭が回転が速い人は何が違うんだろう?」という興味があります。 ノイマンやら井上ひさしやら、めちゃくちゃ多くの情報を次々と処理していける人々は一体、常人となにが違うのか? その答えをある程度見つけることができたかな、と思ったので、今回は「滅茶苦茶多くのことをこなせる人は、なぜそうできるのか」というテーマで書きます。 「生きる速度」のはなし たくさんのことをこなせる人は「思考の基本速度」からして違う まず、「クロックサイクル」という概念があります。 もともとはコンピュータ用語ですが、「人間が物事を考え、処理するときの基本速度」だと思ってください。つまり、「クロックサイクルを高める」ということは、「ものを考えたり処理したりする速度を上げる」ということです。   多くの情報を楽に処理することのできる人がすぐれている第一の点は、この「クロックサイクルの高さ」にあります。思考や行動の基本速度が速いということは、同じ仕事をしていても、それだけ他の人よりも短時間で終わらせることができるということです。 クロックサイクルが高い人は、本を読むのも速いし、思考速度も速いし、日常生活の些事(たとえば選択や料理など)を難なくこなせます。ちなみに、こういう人はかなり早口の傾向があります。本人はが早口だと自覚していない場合もありますが。思考の速度が速いので、それに追いつくためにどんどん口を速く動かすのです。   で、どうやってこのクロックサイクルを高めるかといえば、2つのアプローチが考えられます。 ①自分の思考の限界速度を上げる訓練を継続する ②普段から物事を短時間で片づけるクセをつける ①を実行するためには「高速音読」が一番適していると思います。このブログでも何度か、「高速音読は思考速度を上げるのに最適である」という記事を書いているので、ぜひご覧になってください(参考:「ドン引きするくらい頭が良くなる! 「イメージしながら高速音読」の圧倒的効果」、「【決定版】超効率的に脳を鍛え上げる音読の効果と方法【前編】」)。   そして、①で上げた速度をそのままに、 ②日常のあらゆる事柄をできる限り短時間で処理するようにする と、クロックサイクルが確実に高まっていきます。 つまり、この節で言いたいことは、 頭の回転を速くするためには、「情報処理の基本速度=クロックサイクル」を高めることが必要。 「思考の限界速度を上げたうえで」「普段から高速思考に慣れてください」、ということになります。 当然ですが、このブログも「できるだけ高速で、かつ論理的に破綻しない」ように気を付けて書いています。ただ文章を書くだけだと時間もかかるし、脳にも負荷がかからないんですが、できるかぎり高速で書くことによって思考速度を高めようとしているわけです。   「抽象度の高い思考」ができると、テコの原理が使える また、クロックサイクルを高めることと並行して、「思考の抽象度を高める」ことも有用です。 抽象度を高めるとは、つまり「より上位のカテゴリーで把握する」「より情報量の少ない概念を使って考える」という意味です。   たとえば「我が家で飼っているポチ」よりも、「犬」というカテゴリーの方が上位にあります。ポチというのは犬の中の一種ですが、「犬というのはポチの一種である」とは言えません。つまり、より上位のカテゴリーを使って考える=抽象度を上げるには、普段から「ポチという具体的な存在」を「犬という抽象的な概念」を使って見ることが有用だといえます。 このとき、ポチが「我が家で飼っている」「雑種犬の」「10歳の」といった具体的情報を持っているのに対して、「犬」という概念にはそういったこまごまとした情報が含まれていません。「ポチ」より「犬」のほうが具体的な情報量が少なく、抽象度が高いんですね。   ここで注意すべきなのは、「抽象度の高い概念」というのは、いま述べたように具体的な情報(たとえば、○○高校出身であるとか、趣味は○○だとかいった情報)には乏しいのですが、「潜在的な情報量」はむしろ増えているのです。 どういうことかというと、「犬」という抽象度の高い概念のなかには、「世界中にいるあらゆる犬」が含まれているからです。ポチも、タロウも、柴犬も、土佐犬も、ブルドッグも、すべて包摂されています。潜在的にはものすごい情報量を持っているわけです。概念の階層性でいえば、ポチより犬のほうが上位にあります。(ちなみに、その階層の一番上は仏教の「空」であり、一番下は「矛盾」です)   で、この「抽象度の高い概念は、潜在的に物凄い情報量を持っているということ」からいえるのは、 「抽象度の高い概念を操ることができれば、物凄い情報量をいっぺんにひとまとめで処理できる」ということです。   これはどういうことかというと、たとえば「人類」というものすごく抽象度の高い概念を使うことができれば、そこに潜在的に包摂されている「アジア人・アメリカ人・アフリカ人・ヨーロッパ人・・・」といった概念を「いっぺんに」処理することができるということです。 個別に「アジア人はこうで、アメリカ人はこうで・・・」という手間を省いて、いっぺんにひとからげにして扱うことができるというわけですね。これが「テコの原理」のように見えるので、私は「抽象度の高い思考をすれば、テコの原理が使える」と表現しています。   なお付言しておくと、「抽象度が低い」人にはこれができません。人類という抽象度の高い概念をリアリティをもって実感することができないがゆえに、個別の「○○人」というくくりにとらわれてしまいます。よくヘイトスピーチで「○○人は人間ではない!」とか、「○○人は滅んでしまえ!」といった言い方がなされるのは、抽象度が低い捉え方をしているからだといえます。   そして、抽象度を高めるには、①徹底的に具体的な知識を増やす ②抽象度の高いことを考える この二つです。 ①については、「抽象度を高めるには、その前に、その分野について具体的な情報をしこたま仕入れる」ということです。たとえば、TPPについて抽象度の高い思考をしたいのであれば、分厚い原協定を隅から隅から徹底的に読み込んで、具体的な情報をガンガン仕入れることが必要です。そうやって具体的な情報量を増やしていくと、ある臨界点を超えた地点でパッと「あ、そういうことか!これでTPPはわかったぞ」という感覚が訪れるのですが、これがTPPについて抽象度が上がった(俯瞰することができるようになった)瞬間です。 この「具体的な知識たくさん入れる→抽象度上がる」をあらゆる分野についてやっていくことで、ほとんどすべての事柄に対して高い抽象度を持てるようになります。   ②の「抽象度の高いことを考える」とは、要するに瞑想です。 知識を増やすのと並行して、この世にあるあらゆる事柄を「空」や「縁起」という抽象度の高い概念を使って把握しようと試みるということですね。目の前にあるパソコンやスマホについて、どんな縁起が絡んでいるのか?といったことを考えてみるとか。抽象度を上げるための瞑想については、苫米地英人氏の「思うままに夢がかなう 超瞑想法」に詳しく書いてあります。なんだか怪しいタイトルですがこれは編集者がつけたもので、実際に読んでみると中身はまっとうなものでした。   あとは「並列処理」でさらに二倍の速さになる 以上の「①クロックサイクルを高める」「②抽象度を上げる」をやっていけば、それだけで相当思考速度は上がりますが、まだまだイケます。 ①と②を、「並列処理=無意識」の回路に載せてやればいいんです。   並列処理というのは、要するに「無意識に任せる」ということ。意識的にできることはせいぜい2つかそこらです(しかも集中力も使う)が、無意識に任せてやれば24時間ずっと5個でも6個でも処理し続けてくれます。 車の運転を考えるとわかりやすいですが、ハンドルを握りながら周囲の安全確認、ブレーキとアクセルを踏み分けながら考え事をするといったことは無意識に任せるからこそできるワザです。自動車学校に入りたての人はそれらのことを意識で処理するしかないので、ぎこちないしストレスもあります。それがだんだん慣れてくると無意識で、ストレスフリーでできるようになっていくわけです。要するに、「無意識であればなんぼでも並列処理できるよ」ということですね。   無意識の力を「思考」にも活かしましょう。 無意識というのはその大まかなコントロールを、意識によって行うことができます。つまり、意識的に「この課題を無意識である程度おおざっぱに処理しといてね」と考えておくと、無意識はその通りにやってくれます。 また、先述したクロックサイクルの高さは無意識でも同じことで、意識が高速化されると無意識も高速化されます。さらに、抽象度の高い思考を意識的に行っていると、無意識の方でも抽象度の高いことを考えるようになってくれます。   このようにして「クロックサイクルの高さ ×  抽象度の高さ × 無意識による並列処理」というスリーパワーが使えるようになると、相当な速度で物事を処理できるようになっていくわけです。   まとめ + 思考の速度を上げるための本 さて、いかがでしたか。 けっこう長い記事になったので、ここらでもう一度まとめましょう。 本当に頭の良い人は ①基本速度(クロックサイクル)の向上 ②抽象度UPによってテコの原理を使う ③並列処理で①と②をやる ことによって、常人の10倍近いペースで物事を処理する ということです。   実際、理屈で考えればこうするのが一番早いのに決まっています。速さを上げて、効率を上げて、それを並列でやるんですから。「あいつ、なんであんなに情報処理できるんだろう」と言われるタイプの人は、おそらくこの①~③のどれかorすべてを実行していると思います。   この記事で述べたことを参考にして、ぜひ「頭の回転が速い人」になってください。 では、グッド・ラック!     ★おまけ 「頭の回転を速くしたい」人のためのおすすめ本★ ・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み切り、「ああ、この人はモノホンだ。うさんくさいっていう人もいるけど、論理で考えると本物だな」と確信しました。どんどん思考の盲点が外れて、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。すべて「事実」をもとにした「論理」でモノを言ってくる人ですから、読むだけで論理的に考える力が付くことも間違いありません。   以下におすすめの本を挙げておきます。 ・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術」 ・「ディベートで超論理思考を手に入れる」 ・「苫米地英人、宇宙を語る」 ・「洗脳原論」 ・「思考停止という病」 ・「まずは親を超えなさい!」 ・「すべてを可能にする数学脳のつくり方」 ・「「生」と「死」の取り扱い説明書」 ・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する」   大学教科書・専門書・医学書の買取サイト「専門書アカデミー」   ――この記事をちょっとでも面白い・役に立ったとお思いになりましたら、ぜひFacebook・はてブ・ツイッター等で共有していただければとてもうれしいです――  

「頭を良くしたい人」は、結局何から手を付けるのがいいのか? 総集編Part.1

こんにちは、栗栖鳥太郎です。 聞くところによると、2050年頃には現在の「士業」がかなりの割合AIに取って代わられるそうです。弁護士とか、会計士といった、「専門知識がある人が、知識のない人の代わりとしていろいろやる」業種がかなり減るとのこと。つまり、ただ単に知識があるだけの人は、コンピュータという記憶媒体、つまり条件さえ設定すれば最適解を即座に導き出せる存在にリプレースされるようです。 ますます、「コンピュータにはできない芸当」が求められる時代になりそうです。 また、人間の長寿化が進むと、100歳の元気な老人と20歳の若造が一緒の職場で働く時代になるみたいですね。まだ20年しか生きていない存在と、圧倒的な知識をプラス80年間学び続けてきた存在が共存する時代。頭が悪い若者は、知識と経験を積んできた老人に良いように利用されてしまうかもしれません。 これまでもこのブログでは、「音読で頭が良くなる」とか「抽象度を高くすれば頭が良くなる」といった個別的な記事を載せてきました。そういう記事をたくさんストックしてきて、そろそろ「頭を良くするためにできるすべてのことを総括する」時期になったのかなあ、とも思います。 つまり、今回は「頭を良くするにはこういうアプローチをとると良いよ」の総集編です。 頭を良くするためにできるすべてのこと Part 1 それぞれのことについて詳しく書いているととても長くなってしまうので、ここでは簡単な説明にとどめるか、同じテーマを詳しく解説した記事へリンクしておくことにします。 ①知識を増やす まずは脳のソフト面(つまり、脳というハードウェアのなかに入っているもの)の話をしましょう。 なお、ここでは、知識=概念とします。知識が多いということは、多くの概念を理解しているということです。   当然ですが、知識のある人にはたくさんのことが見えます。 逆に、知識の乏しい人にはそれだけのことしか見えません。 したがって、知識の乏しい人には、知識のある人の世界の見え方がわからないのです。   もっと言えば、思考のパターンすらも「知識」です。数多くの思考パターンに触れてきた人は、必要に応じてどのアプローチをとればいいか即座に判断できる(過去に触れた思考法からそのままパクればいい)ので、迅速な判断ができます。知識がないと、いちいちその場で考える必要があります。   さらに、知識のある人は、ある一定のレベル知識を増やし続けることによって(おそらく読書を1000~数千冊こなすくらい)、知識と知識が化学反応を起こして「創造的なこと」をどんどんひらめくようになります。   知識を身に付けることにはだいたいこのような意味があるのですが、知識を身に付けるための大まかな方法についてには、前に書いた記事「「圧倒的な知識量」を身に付けるには4つの方法がある」を参照してください。個別的な方法論ではなく、大まかな「知識を身に付けるアプローチの種類」についてまとめたものです。   そして、個別的な方法でいえば、知識を増やすのに一番いいのはやはり読書。 作家・小説家に読書家が多い(=知識を蓄えている)のは当然として、 著名な実業家やアイディアマン的な人々も相当の読書をこなしています。 実際に彼らがどれだけ読んでいるかについては「知っておきたい! デキる人・成功者の『読書量』はどれくらい?」をご覧ください。著名な知識人の読書量をまとめてあります。   ついでに言えば、「知識が増える読書」のためには、「自分が本来興味ない分野の本を読んでみる」ことも必要です。自分の興味のある分野について読むのもけっこうですが、そればかりだと自分の興味のないものについては知らないままです。心理的な盲点を消すためには、「自分が興味のない分野」の本を読んでいくことも必要だと考えます。   ②物理的に脳を改善する・・運動と音読と食事と睡眠 つぎはハード面の話をしましょう。 つまり、物理的な脳の話です。   脳は、なんといっても「体の中のいち器官」です。血が通っているし、細胞もたくさんあります。 肝臓を酷使すると肝不全になるように、脳に対してストレスをかけると何かしらの不都合が生じてきます。   確実に脳によい運動としては、「一日30分程度の有酸素運動」を勧めます。 これは、「他人事じゃないぞ。「注意欠陥多動性障害=ADHD」は、「運動」で良くなる!」にも書いたように、『脳を鍛えるには運動しかない!』で推薦されている方法でもあります。ADHDの人にだけでなく、そういう症状のない人でも、いろいろとメリットがあります。 プラスアルファで、適度な筋力トレーニングも良いでしょう。筋トレによってドーパミン・エンドルフィンとセロトニンといった多幸感を生むホルモンが分泌されます。精神を前向きにする力があります。身体の見栄えも良くなるので自信も持てます。ちなみに、高級ホテルのジムには朝早くから金持ちのユダヤ人や中国人が詰めているそうです。   あとは「音読」、とくに「イメージしながら高速音読」がおすすめです。 言語の内容をイメージすることによって、「言語⇔イメージ」の回路が活性化されます。イメージする力が強いひとは、理科や数学にも強いです。良く言う「右脳と左脳」を両方活性化する方法でもあります。 「高速」で音読するということは、「自分の限界速度を上げる」プラス「その速さで思考する・しゃべることに慣れる」という効果があります。限界速度は、速ければ速いほどいい。速い人がゆっくり考えるのは簡単ですが逆は難しいのです。なお、限界速度を上げるということは、人生の相対的な時間を増やすということにもなります。つまり相対的に長生きになります。さらに、「頭の回転が速い人」についていく・あるいは追い越すためにも、高速で思考する訓練は必要不可欠といえます。頭の回転が遅い人はいくらでもいますが、頭の回転が速い人は希少価値があります。   食事については、諸説ありますが、少なくとも「これだけはやめておけ」というラインはあります。 ①カロリー過多 ②糖分過多 ③肉の食べ過ぎ ④野菜・果物の食べなさすぎ ⑤よく噛まないで食べる ⑥飲酒しすぎ 私は特に「頭が良くなる食材」については取り上げません。あるっちゃあるんですが、上記6点を守ることの方が先決です。頭の良い状態をキープしたいなら、最低でもこの6点は守ってください。あまり神経質になりすぎるのも毒ですが、かといって上記6点を滅茶苦茶に破ると間違いなく思考能力が低下します。物理的な健康も害されてしまいますので良いことがありません。   加えて、睡眠のとり方も一考すべきです。 最低でも6~7時間は確保する必要があります。 ごくまれにショートスリーパー(1日3~4時間)の人もいますが、ショートスリーパーで長生きしたという人を私は寡聞にして知りません。自分では平気だと思っているかもしれませんが、身体は間違いなく悲鳴を上げます。というのは、ノンレム睡眠(深い睡眠)の時に体の修復がされるわけで、その時間を削るということは、ジリジリと体が消費されていくことになるからです。今は若いから大丈夫だとしても、体の物理的な回復力が衰えてくるとかなりの確率で「プチッ」と行きます。死んでから後悔しても遅いので、今のうちに改善しておきましょう。   また、「睡眠時間の使い分け」も考えてみてください。 どうやら人間は「長時間睡眠だと内向的に、比較的短時間の睡眠だと外向的になる」傾向があるようです。これは同じ人間が睡眠時間を変えた場合でもそうなります。私自身実験してみたところ確実にそういう傾向がありました。 「長時間寝るから内向的になる」のか「内向的だから長時間寝る」のかいったいどっちが正しいんだろうとも思われるかもしれませんが、おそらく両方です。両方が相互作用していると思います。長時間寝ることによってレム睡眠が増える=脳が記憶を整理定着する時間が増えることで思慮深くなり、ついでにレム睡眠の時はかなりの率で悪夢しか見ないので内向的になる。その傾向が朝っぱらから開始されるため日中も同じようなことを考えて過ごす。そういう心配性の人はストレスが多いので長時間寝る必要がある・・・というサイクルではないかと思います。 こういうことを踏まえたうえで、精度の高いレポートなどを仕上げるときには長時間寝て、逆に1日中人と接するような場合は比較的短時間で済ませる―という使い分けができるはずです。 少なくとも言えるのは、「寝なさすぎは脳に直接ダメージが行く」ということ。睡眠不足ははっきり言って「ヤバイ」です。忙しくて睡眠時間が少ない場合は、昼寝を15分くらい挟むか、あるいはしっかりと日中日光に体をさらすこと。これだけでだいぶ違います。睡眠不足で長時間考えるより、睡眠を十分とって短時間考える方がストレスフリーですし質の高い時間を過ごせることを念頭においてください。 なお、寝すぎについてはどうなのかわかりません。私自身が寝すぎの傾向があるので。   まとめ + 読むと確実に頭が良くなる本 さて、いかがでしたか。 「頭が良くなる方法」の総集編。 このブログで書いてきたことは一貫して「頭を良くする」というテーマですから、この記事をガイドにすれば当ブログのコンテンツを隅から隅まで舐めるように味わい尽くすことになります。 正直言って、そこらの自己啓発本を100冊読むより、この総集編ガイドと、後に紹介する苫米地氏の本を読んだ方がよっぽど実利的だと確信しています。そんじょそこらのビジネス本とは抽象度が違いますから。   間違いなくこれからの時代、「頭の良い人」と「頭が良いとは言えない人」の二極化が進んでいきます。私は他人の生き方に干渉する権利を持たないので、皆さんがどちらに転ぼうとも勝手ですが、むずかしさでいえば頭が良くなる方が難しいのは確かであり、数でいえば頭が良い人の方が少数派であることは間違いありません。   そしてきっと、頭の良い人の方が人間としての生きがいを発揮することが多いのでは?とも思っています。 是非、このPart1と、続くPart2を読んで、「頭が良い人」になってほしいと思います。 では、グッド・ラック!   ★おまけ 「時間という概念について興味を持った」人のためのおすすめ本★ ・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み切り、「ああ、この人はモノホンだ。うさんくさいっていう人もいるけど、論理で考えると本物だな」と確信しました。どんどん思考の盲点が外れて、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。すべて「事実」をもとにした「論理」でモノを言ってくる人ですから、読むだけで論理的に考える力が付くことも間違いありません。   以下におすすめの本を挙げておきます。 ・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術」 ・「ディベートで超論理思考を手に入れる」 ・「苫米地英人、宇宙を語る」 ・「洗脳原論」 ・「思考停止という病」 ・「まずは親を超えなさい!」 ・「すべてを可能にする数学脳のつくり方」 ・「「生」と「死」の取り扱い説明書」 ・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する」   大学教科書・専門書・医学書の買取サイト「専門書アカデミー」   ――この記事をちょっとでも面白い・役に立ったとお思いになりましたら、ぜひFacebook・はてブ・ツイッター等で共有していただければとてもうれしいです――  

「時間」についての考えを知れば、人生は100倍楽しくなる

こんにちは、栗栖鳥太郎です。 今回は、いつかこのテーマで書きますよ、という通知を出した気がするテーマをやります。 それは、「時間」について。 「時間」についてしっかりと考えてみたことはありますか? 人間は生物ですからモロに時間の影響を受けます。 老化も成長も進化も退化も、すべて時間という概念があってこそ把握できるものです。 「昔はよかった」と懐かしめるのも、「未来はこんな感じだろうか」と予測できるのも、時間という概念を人類が持っているからです。 今回は、そんな「時間」について考えてみましょう。 時間についての考え方あれこれ 時間を「過去→未来」でとらえる人と、「未来→過去」でとらえる人の差 みなさんは「時間の流れの向き」について考えたことがありますか? つまり、「過去→現在→未来」というように過去から順繰りに展開していくのか、それとも「未来→現在→過去」というように未来が起点となっているのか? どちらでしょうか。   まず、「時間は過去から未来へと流れている」と考える人がいます。 「過去→現在→未来」という方向です。 現代人では、おそらくこちらが大多数でしょう。 過去にAということがあって、その結果Bが起きて、そしてAとBを経験した自分がいて、いまの自分の状態からすると未来はこうなっていくだろうな・・・という思考法です。 これを強くすると、決定論的・予定論的な論理が生じてきます。人間は過去によってすべて決定していく、というように。 「時間は過去から未来へと流れている」というのは非常に自然な考え方に思えます。   でも逆に、「時間は未来から現在、過去へと流れている」とも言えるのです。私はこちらの考え方です。 なぜそう考えられるかというと、 まず、①過去というのはどんどん遠ざかっていきます。ほんの今まで現在だった瞬間は、次の瞬間には「過去」になっています。そして時間の経過につれてどんどん現在からは遠く遠く離れていきます。現在が過去になり、過去はもっと古い過去になっていき・・・というように流れていく以上、時間は未来から現在、そして過去へと流れていくのではないか。 そして、②過去(の解釈)というのは未来によって変動します。たとえば今の時代では、ヒトラーという過去の独裁者は絶対悪ですが、もしかしたら、もう少し先になってドイツが世界の覇権を握るかもしれない。そして「ドイツは最高だ!」というプロパガンダを始めたとする。そうなると、今度はヒトラーが肯定されます。ユダヤ人虐殺は「あれがあったからこそ今のドイツがある」といった感じで捉えられるでしょう。 となると、過去は未来によっていくらでも変わります。現象・事実としては変わらないはずなのですが、「観測された過去」と「過去の解釈」が変われば、それは人間にとっては「過去が書き換えられた」のと同じです。 あくまでも、未来が「因」であり、過去は「果」なのです。     過去にフォーカスしすぎると・・・ ちなみに、おそらくトラウマや精神病などは、過去にフォーカスしすぎた結果起きるケースも多いと思います。 私は専門家ではないので推測に過ぎませんが、「時間は過去から未来に流れており、したがって過去の出来事が今の私を決定しているのだ」という思考の仕方だと、過去の出来事に縛られすぎてしまうのではないでしょうか。たとえば、「小学校の頃のトラウマがあるから私には○○ができない」といったように。過去→未来という因果の捉え方をしている限りは必ずそうなるように思えます。 また、コミュ障(コミュニケーション能力に差し障りがある人)や人見知り、自己肯定感の薄い人、自己評価の低い人もおそらく同様でしょう。過去の失敗体験や恥ずかしい思いをした経験があって現在の自分がつくられた、という「現在の自分は過去によってすべて決まっている」式の考え方だと、そうなるはずです。   しかし、先にも述べたように、未来によって過去が決定されるという考え方をしていれば、過去の方に目が行くことはまずありません。 たとえば、「人の目を見て話せない」という悩みを持っていた人がいたとします。これは過去(特に、情動を伴った記憶)に縛られた状態です。もしその人が「今までは、時間は過去から未来に流れてると思ってたけど、本当はやっぱり未来から過去だったわ」という風に考え方を入れ替えて、未来のゴール、たとえば「宇宙一のクリエイターとして人類の文化を何歩も先に進めてやる」といったようなゴールを持ったとすれば、その瞬間から過去が変わり始めるわけです。 「人の目を見て話せない」という悩みは、「自分は宇宙一のクリエイターなんだから、べつに人の目を見て話すっていう常識に縛られる意味なかったじゃん」という感じで霧消するかもしれません。あるいは、「宇宙一のクリエイターは当然コミュニケーション能力もあるから、人の目を見て話すなんて朝飯前じゃん」という風に発想を転換するかもしれません。 この瞬間、過去が変わっています。 こういう例を考えてみるとやはり、「未来が過去を決める」ようにしか思えないのです。時間の流れは「未来→現在→過去」が正しいように私には思えます。   実際のところ、「過去が未来をすべて決定する」というのは一見もっともに見えますが、実際はあまりメリットのない考え方です。 まず、この考え方だと、過去の延長線上にない未来は想像できないでしょう。当然、「過去によって未来が決まる」のであれば、現在の自分・過去の自分から大きく飛躍することは難しいはずです。受験で言えば「あなたの偏差値からしていけそうなところへ行きなさい」になるでしょうし、就活でいえば「あなたの学歴と経歴からするとこのあたりが限度だね」ということになります。 一見まともな考え方ですが、これだと自分の可能性はどんどん狭くなっていきます。 現状から見えないもの(心理的盲点・スコトーマ)が存在することに気付けないのです。過去にやってきたことを頼りに判断するしかありませんから。   ちなみに、「人生のレールから脱線~」という言い方をよくしますが、これもまた「過去に縛られた思考法」です。「名門の中高一貫にいた」という過去が「良い大学に入って、良い企業に就職する」という未来を決めるのだ、という考えがその背景にあります。   また、「過去が未来を決める」というのは、典型的なドリームキラーの考え方でもあります。たとえば、日本プロ野球で年間打率.280、本塁打25、打点80くらいの選手が「FAしてメジャーリーグに挑戦します」と言ったら、間違いなく「過去の成績から見て、お前じゃ通用しないからやめておけ」と周囲から言われるはずです。もちろん、球団にとっては、過去の成績が良いというのは選手獲得のためのひとつの目安となります。   しかし、これのなにがいけないかというと、最初から「通用しないんだよ!」と決めつけてしまうので、未来の可能性を相当狭く縛ってしまういう点にあります。 もしかしたらその選手はシーズンオフにメジャーリーグ対策として何かしら特別なことをやり始め、それが功を奏してメジャーでも活躍できるかもしれないのに、過去で判断している限り、それが見えないのです。現状に縛られている人にはそういう可能性が見えません。   「過去が未来を決める」という考え方は、原理からしても妥当ではないし、実際には「使えない」考え方なんです。そうではなくて、「未来が過去を決める」という発想の転換をしてやれば、過去というのはいくらでも変えられますし、過去にとらわれることによるストレスも少なくなります。   「過去はすべてベスト」と「未来の自分は最高の自分」 「未来が過去を決める」という考え方を採用する場合は、次の二つがポイントになるでしょう。 ①過去はすべてベストである ②未来の自分は最高の自分である このように考えないと不都合が生じるのです。   ①「過去はすべてベストである」について説明します。 なぜ「過去はすべてベストである」といえるのか? それは、過去に自分が選択したあらゆる行動は、「その時点の自分にとっては、それをすることがベストだと判断したもの」だからです。というのも、たとえ後から見ると「もっとできたのになあ・・・」と思えるようなものであっても、その過去の時点の自分はそれがベストだと思ってやっていたはずです。「ベストを尽くそう」と思っていない場合であっても、サボりを選んだ場合でも、そのときの自分にとってはそれが最善の行動のように「見えた」のです。   そしてこの「過去はすべてベスト」という考え方は、「②未来の自分は最高の自分」とセットです。というのも、「未来が過去を決める」以上は、次のような考え方がもっとも建設的かつ最高の結果を生むからです。   つまり、「未来の自分は最高の自分であり、したがってそこに至るまでの過去の自分のすべては最高の自分でなければならない」という帰結です。   つまり、未来の自分さえ最高であれば、「そこに至るまでの過去の自分」はすべて無条件で「最高」になるのです。論理で考えると必ずこういう結論に達します。未来の最高の自分から振り返ってみると、すべてのこと(たとえそれが恥ずかしい経験であったり、悔しい体験であったりしても)が「過去にアレがあったからこそ、今の最高の自分がいる」と思えるはずですから。 たとえば、小学校時代にいじめられていた人であっても、「未来の最高の自分」の目線に立って見てみると、「いじめられていたからこそ、人と距離をとるようになって、その分自分の趣味だけに没頭できた」となるかもしれません。   このように、「未来が過去を決める」という立場を採用する以上、①過去はすべてベストである ②未来の自分は最高の自分である という論理が導き出されます。そして実際、こう考えることのできる人は相当「強い」です。何度失敗しようが「いや、これは未来の自分から見れば最高の結果なんだ」とすぐに立ち直りますし、未来の最高の自分という高い理想を持っているので前進のエネルギーも半端ではありません。断言できますが、孫正義氏や松下幸之助や本田宗一郎といった日本の偉大な実業家は間違いなくこの考え方を持っています。   実利からみても、論理からみても、「未来が過去を決定する」と考えるのが一番自然なのです。   「過去にこだわること」に一体何の意味があるのか? 過去にこだわることによっていったい何が生まれるというのか? 過去に縛られるのは楽しいものか? 過去に目を向ける意味がない以上、未来だけを見ればいいのではないか? 未来の最高の自分からすれば、過去の自分もすべて「あれがあったからこそ」になっているのではないか?・・・このあたりのことを考えてみてほしいと思います。   まとめ + 「未来が過去を決める」についてもっと知りたくなった人のための本 さて、いかがでしたか。 時間という概念についてじっくり考えたことって、おそらくほとんどの人はないと思います。   今回述べてきたように、「時間」についての考え方を改めると、どんどん今まで見えなかったものが見えてくるようになり、ストレスフリーになっていきます。 「時間術」というタイトルの本が店頭にたくさん置いてある時代だからこそ、自分なりの「時間」に対する考え方を持つべきではないでしょうか。   少なくとも人間が生物である以上、永遠の生というのはありえないはずです。 自分に残された時間がどれくらいあるかは誰もわかりっこないので、時間をうまく使っていきましょう。 では、グッド・ラック!   ★おまけ 「時間という概念について興味を持った」人のためのおすすめ本★ ・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み切り、「ああ、この人はモノホンだ。うさんくさいっていう人もいるけど、論理で考えると本物だな」と確信しました。この人の本を読むと、どんどん思考の盲点が外れて、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。今回の記事の内容に関心のあるかたは、「苫米地英人、宇宙を語る」が興味深く読めると思います。 以下におすすめの本を挙げておきます。 ・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術」 ・「ディベートで超論理思考を手に入れる」 ・「苫米地英人、宇宙を語る」 ・「洗脳原論」 ・「思考停止という病」 ・「まずは親を超えなさい!」 ・「すべてを可能にする数学脳のつくり方」 ・「「生」と「死」の取り扱い説明書」 ・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する」   大学教科書・専門書・医学書の買取サイト「専門書アカデミー」   ――この記事をちょっとでも面白い・役に立ったとお思いになりましたら、ぜひFacebook・はてブ・ツイッター等で共有していただければとてもうれしいです――  

「人生変えよう」と思ってるうちは絶対に変われない2つの大きな理由

こんにちは、栗栖鳥太郎です。 突然ですが、「○○で人生変わった」と聞いて、なにを思い浮かべるでしょうか。 宝くじ? 受験? 恋愛? そういえば本邦では、「風俗行ったら人生変わったwww」という映画も公開されたことがあります。 長引く経済的閉塞感のなかで、多くの人が「人生を変えられるものなら変えたい」と思っているように見えます。 でも、ただ単に「人生を変えよう。私は決心した。やり抜いてやる」と決心しただけでは、結果は見え透いています。九割方三日坊主で終了するでしょう。 今回の記事では、「人生変えようと思っているけど上手くいかない」のはどうしてなのか、そしてどうすればそうならないのかについて書きます。 なぜ「人生変えよう」と思う人が元の状態に逆戻りしやすいのか ①「変わろうとする」ことへの本能的・無意識的恐怖 人間には、「今の状態のままがいい」と思い、それを維持しようとする傾向があります。   たとえば、ホームシックがその例です。 いつも家にいる人がどこかに長期間遠出すると、その人にとっては見知らぬ環境ですから、ストレスが溜まり、実家に帰りたくなります。また、そのような暮らしに慣れてくると、今度は「家に帰るのが面倒くさい」という風に適応します。 どちらも、「自分が長い間そうであった状態への回帰願望」が現れているといえます。   また、年上から年下に対する目線にもそれが見られます。 「最近の若者は・・・」という古代ギリシャ(プラトンが言っていた)から綿々と繰り返されてきたフレーズが今も残っているのは、「自分たち年上の居心地の良い状態が、若者の台頭によって揺るがされるから」でしょう。   このように、「居心地の良い状態から動きたくない」という欲求が人間にはどうもあるようです。 そして、この「居座り欲求」ともいうべきものは、「変わりたいという欲求」よりよほど強いんです。 ですから、「変えよう!」と思っても、それより強い「変わりたくない。元の居心地の良い状態に戻りたい」という欲求が出てくるわけです。これをどうにかしない限り、三日坊主は治りません。     ②周囲による抵抗 過去の記事、「あなたの夢をぶち壊す「ドリームキラー」にご用心」でも説明しましたが、あなたが変わってしまうと周囲の人は不安になります。 これの原理は、本質的には「①人間は、変わりたくないという欲求が強い」と同じです。 つまり、「自分を取り巻く周囲の状況は、あまり変わってほしくない」。 ですから、「自分はこのままでいたい」という人が、「自分は変わりたい!」と思っている人を見つけると、「変わらないほうが良いよ」「おまえはどうせ変われないよ、元に戻るよ」という口出し(あるいは無意識での行動)を起こすわけです。直接的には示さなくても、「最近のあいつの真似」とか「あいつ最近○○だよな」といった感じで、意識的であれ無意識的であれ足を引っ張ろうとするんですね。   「変わろう」と思っている矢先にこういうことを言われるわけですから、当人にとっては強烈なダメージになります。それで諦めてしまう、と。   「人生変えよう」は、条件次第で本当に変わる では、本当に「人生変えたい」と思っている人は、なにをすべきなのでしょうか? 私は、2つのポイントがあると思います。 ①「ゴール設定」ができているか? 一つ目は、「遠いところにあって」、かつ「本当に自分がやりたいこと」をゴールとして設定する、というポイントです。 なぜ「遠いところ」に設定するかというと、①現状維持欲求を消し去る ②遠ければ遠いほどエネルギーが出る から。 ゴールは遠いところに設定しないと、現状を変えるために必要な莫大なエネルギーが供給されません。「この先300年この国を引っ張る企業としてあり続ける」というような高いゴールを持っている企業は、ガンガン現状を変えていくはずです。逆に、「今年は、去年より利益率を○パーセント上げる」というゴールしか持っていない企業は、いつまで経っても現状の中から出ることができません。   また、なぜ「やりたいこと」にするかというと、「やりたいこと」じゃないと脳が本気を出してくれないからです。将来世界一の作家になりたいと思っている人が格闘技のチャンピオンを目指すことはありません。 「やりたいことがわからない・・・」という人もいるかもしれませんが、そういう人はたいてい「本当はやりたいことがあるのに、できるかどうかわからないから、ないことにしている」ことが多いので、気を付けてみてください。本当にやりたいことがあっても、周囲から「それ君には無理だよ。だってセンスないじゃん」といったような言葉をかけられると、かなり萎えてしまいます。 「できるかどうか」で考えるのは意味がありません。なぜなら、「できるかどうか」は、やり終わった後になってみないとわからないからです。「やってみた結果、できないとわかった」というのはあるかもしれませんが、やる前から「できないだろう」と思うのは無駄です。 ついでに言えば、本当にやりたいゴールの場合、脳がかなりクリエイティブに働いてくれるので、従来では考え付きもしなかったような斬新な方法論を次々に発明しながらゴールが達成される、ということもあります。   というわけで、まずは「やりたいことで、かつ遠くて高いゴール」を設定すべきです。 なお、間違えても「人生変えよう」がゴールにならないようにしてください。本末転倒で効果がありません。   ②ゴールの方を「居心地の良い状態」に転換してやるという発想 「遠くて、かつ本当にやりたいゴール」を見つけたら、あとは実に簡単。 「ゴールが達成された状態」を「居心地の良い状態」にしてやれば良いのです。   つまり、現状にリアリティーを感じる度合いよりも、ゴールが達成された未来の方にリアリティーを感じる度合いの方が強いというようにしてやれば良いというわけです。「いまの状態」ではなく、「未来の状態」の方に照準を合わせるということです。   この方法の何が良いかというと、「居心地の良い状態に戻ろうとする力」を味方につけることができるという点にあります。 なぜなら、この方法をやっている人からすると、「未来のゴールが達成された状態」こそが居心地の良い状態ですから、「ゴールがまだ達成されていない現在という状態」「ゴール達成のためにやることをしていない状態」はかなり気持ちが悪いんです。それで、そのギャップを埋め合わせるために、現在を「ゴール達成のためにふさわしい状態」に戻そうとするわけです。 つまり、先ほどの「居心地の良い状態に戻ろうとする」のを逆手にとるやり方ですね。この方法であれば、かなりのエネルギーを生み出すことができます。   そして当然ながら、「ゴールが達成された未来の状態にリアリティーを感じる」「そのゴールを達成するために現在こうあればいいんじゃないかということをやる」ためには、多少のテクニックが必要です。なんせ、自分の目の前にある現実というのは五感にフルに訴えかけてきますから、リアリティーが相当あります。その現在の状態に打ち勝つほどに未来の状態をイメージするというのは、技がないとできません。 このワザの部分に関しては、「アファメーション」とか「未来の記憶を作る」「ワーズ・ピクチャー・エモーション」といった言葉がキーワードになるのですが、それは長いので後日紹介する予定です。待ちきれない方は、下の「まとめ」の欄にある苫米地氏の著作を読んでみてください。詳しく書いてあります。   まとめ + 「よりよい人生を送りたい人」が読んでほしい本 さて、いかがでしたか。 今回述べてきたように、なんのゴール設定もすることなくその場の気分で「自分は変わってみせる!」と決意しても、かなりの確率で元に戻ります。布団の中ではやる気があるけど朝起きるとやる気が消えている人と一緒です。   でも、今回の記事で紹介した ①「やりたいこと」で、かつ「遠くて高い」ゴールを設定する ②そのゴールが達成された未来の状態と、それを達成するために現在こうあるべきじゃないかという状態にリアリティーを感じる という方法を知っていれば、十分に「人生を変える」ことが可能です。   あとはそれをいかにしつこくできるか次第でしょう。 今までの「変わろうとして変われなかった自分」から脱皮して、思い通りに生きる人になってください。 では、グッド・ラック!   ★おまけ 「変わろうとして変われなかった人」のためのおすすめ本★ ・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み切り、「ああ、この人はモノホンだ。うさんくさいっていう人もいるけど、論理で考えると本物だな」と確信しました。この人の本を読むと、どんどん思考の盲点が外れて、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。今回の記事の内容に関心のあるかたは、「まずは親を超えなさい!」がおすすめです。 以下におすすめの本を挙げておきます。 ・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術」 ・「ディベートで超論理思考を手に入れる」 ・「苫米地英人、宇宙を語る」 ・「洗脳原論」 ・「思考停止という病」 ・「まずは親を超えなさい!」 ・「すべてを可能にする数学脳のつくり方」 ・「「生」と「死」の取り扱い説明書」 ・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する」   大学教科書・専門書・医学書の買取サイト「専門書アカデミー」   ――この記事をちょっとでも面白い・役に立ったとお思いになりましたら、ぜひFacebook・はてブ・ツイッター等で共有していただければとてもうれしいです――

「圧倒的な知識量」を身に付けるには4つの方法がある

こんにちは、栗栖鳥太郎です。 突然ですが、「知識というのは多いほうが良い」というのが私の考えです(知識=概念とします)。 その理由はいくつかあって、知識が増えれば見えなかったものが見えるようになるし、一定量の知識がある人でないと創造力も発揮できません。議論に強くなりやすいのは知識のある人ですし、頼りにされやすいのも知識のある人です。根性と礼儀正しさがあれば何とかなるように思えた時代は終わり、これからの時代は個々人に相当な知識量が求められるようになっていくように見えます。 就活でも、受験でも、はたまた人生を通しても、知識があるのとないのとでは雲泥の差でしょう。 そこで今回は、「そもそも知識というものはどうやって得られるのか?」について書きます。 それも、「本をたくさん読む」「たくさんの人と会う」といった個別的な話ではなく、もっと総括的に、メタ的に、抽象度の高い視点から見ていきます。 圧倒的な知識量を身に付ける4つの方法 このブログをご覧になるような方であれば、「もっと多くの知識を身に付けたい!」と思ったことは一度はあるはずです。知識量を増やそうと思うのは素晴らしいことだと思いますが、「もっと多くのことを知るにはどうすればいいか」という方法論をある程度把握しておけば、もっともっと効率的に知識習得できるはずです。 ①強制的に身に付ける まず、知識は「強制的に身に付ける」ことができます。 いわゆる「受験」「授業」「試験」のことです。 学校で教えられた知識が必要だという場合や、試験をパスするためにある分野についての知識が必要だという場合ですね。お受験ママ的な発想ですが、これはそれなりに効果的です。   この強制的方法のいいところは、 「自分にとっては興味のない分野まで広く学習することができる」 「受け身でも知識が身に付く」 ことでしょう。 ですから、例えば英語の知識を身に付けたいから国際教養大学や上智の英語学部あたりに行ってみたり、基礎知識と教養をまんべんなく身に付けるためにイェール大学に入ってみたり、模試で良い点数を獲るために勉強したり、外交について詳しくなるために外務省に入ってみたり、法律に詳しくなるために司法試験を受けてみたりすることなどが「強制的に知識を身に付ける」好例です。   でも逆に、メリットがそのままデメリットにも転化することもあります。 「興味がないものまでやるので、知識が抜けやすい」 「あまり強制されすぎると、反動で学習意欲ゼロになる可能性がある」 あたりでしょうか。お受験の弊害としてよく言われるやつですね。   こういったリスクを回避するためには、②の方法が効果的です。   ②自分の好きな分野を徹底的に学ぶ・極める いわゆるオタッキーな極め方です。 たとえば鉄道マニアの人は非常に細かいところまで見ていますし、 歴史マニアの人も映画や時代劇や創作モノに盛んにツッコミを入れたりしています。   マニアだけでなく、学者もこのタイプの人が多いですね。 生物学者とか地質学者とか、天文学者とか。 ひたすら自分の興味のある分野をやり続けた結果、いつの間にか誰よりもその分野について詳しくなった人ですね。 そういえばノーベル賞を受賞した日本人の学者に、たしか「ひたすらクラゲを獲ってきて分析し続ける」ということをやった人がいたような気がします。 まわりからすれば「なんやあいつ」ですが、本人は自分の好きなことをやっているのでいたって幸せです。   この「興味のある分野を極める」のいいところは、やはり 「好きな分野だから、いくらでも学習し続けられる」ことでしょう。 ①の強制的方法とはまるっきり正反対です。 何時間でもDSに夢中になっている子どもと同じで、放っておいたら何時間でもやり続けます。本人は幸せです。   ただし、「興味のある分野以外のことはやらない」ので、どうしても自分の興味の外にあるものは盲点となってしまいがちです。たとえば、鉄道の車両については詳しいけど、電車の中のマナーは悪いとか。生物については滅茶苦茶詳しいけど、生物を動かしている原理を化学的に分析することは苦手、とか。 「興味のある分野だけをやる」というのはエネルギーが要らないので、とっかかりとしては良いのですが、やはり興味の外にある分野をまったく知らないというのではいろいろな差し障りがあります。 そこで③の方法を取り入れましょう。   ③いまは詳しくないけど、興味や疑問を持った分野を学習する たとえば、生活のなかでふとした疑問を抱いたとき、その疑問を解決するために調べものをすると、知識がスルスルと入ってきます。脳が「○○の知識が欲しい!」と要求するときは、素直に調べてあげましょう。   「車って、どうやって動いてるんだろう」 「世の中ってどうやって動いてるんだろう」 「経済ってどう回ってるんだろう」 「この宇宙って、どうやって動いてるんだろう」 「人間って、死んだらどうなるんだろう」 といった素朴な疑問を持ったとき、それは「その分野について詳しく知識を得たい!」と脳が欲しているサインです。   このように、「いまは詳しくないけど、疑問がある」「興味が湧いてきた」といった場合、その疑問を解決し、好奇心を満たすように行動してやれば、かなりの知識がいっぺんにドサーッと入ってきます。 よく子どもの教育論で「子どもが疑問を持ったことについては、納得のいくまで調べさせなさい」と言うのは、このためです。人間は言語と知性と理性を持っている動物なので、知識欲が満たされれば気持ちいい。だから、脳が知識を欲しがっているときにはガンガン与えてやるべきでしょう。 これは大人でもまったく同様で、「知識の受け入れ準備ができている状態かどうか?」というのはひとつの目安になります。知識欲が湧かない分野について学んでも効率が悪いですし、逆に疑問に思ったことを解決してやるようにすればかなりの知識量が得られます。   この方法のいいところは、以下の通りです。 知識という名の島が大きくなればなるほど、不思議という名の海岸線も長くなる というのはラルフ・ソックマンという人の言葉ですが、 「前は興味のなかった分野についてであっても、疑問を解決するようにして知識を増やしていけば、増えた知識によってさらに疑問が生まれ、加速度的に学習意欲が増大していく」というのがメリットです。   以上の①~③はセットにして、相補い合う関係だと思ってください。どれかひとつに傾倒するのではなく、三転倒立でバランスよくやっていくことが重要です。なお、④はおまけです。   ④周囲の環境によって自然に習得する 日本に生まれた人であれば「こたつ」「風鈴」といったモノの知識を得ていきます。 その国の有名人についての知識や、近所のおばさんの苗字とか、裁縫の仕方とか、生活するなかで自然に習得されていく知識もあります。   たとえば、日本人であれば「あ、風鈴が鳴ってる」と思うような場合でも、 外国の人は意外と風鈴があることに気付かないそうです。 生活のなかに風鈴がある日本人は「風鈴」という概念を認識できますが、 外国人であればそういう概念を知らないので、学習しない限り認識できません。   このように、特に学習意欲がなくても「生活するなかで得られる知識」というのがかなり多いのです。 人間は社会的動物だとか文化を持つ唯一の動物だとか言いますが、人間には生来「知識を得ようとする傾向」があるように思えてなりません。   まとめ + もっともっと知識を得たい人のための本 さて、いかがでしたか。 知識を身に付けるためには四つの方法があると述べてきました。 ①強制的に身に付ける ②自分の興味のある分野をやる ③興味がなかったけど、疑問の湧いた分野をやる ④環境によって得られるものがある ということです。   知識は絶対に、ないよりはあった方がいいと私は思います。 図書館とか大きな書店に行ってみるとわかりますが、自分一人が知っている・見えている世界なんて、この世界全体の巨大さからしてみれば本当に微々たるものなのです。 自分がしっかりと見ているつもりの世界が、実は穴だらけのスカスカ・・・というのが本当のところです。   ぜひ、知識をたくさん身に付けて、この世界の解像度を上げてやりましょう。 知識がある人とない人の世界の見え方は、ファミコンとPS4くらいの差がありますから。 では、グッド・ラック!     ★おまけ 「知識をもっと増やしたい人」のためのおすすめ本★ ・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み切り、「ああ、この人はモノホンだ。うさんくさいっていう人もいるけど本物だ」と確信しました。この人の本を読むと、どんどん思考の盲点が外れて、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。また、この人の「抽象度」という概念を知っておくと、知識習得のペースが大幅に向上すること間違いなしです。 以下におすすめの本を挙げておきます。 ・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術」 ・「ディベートで超論理思考を手に入れる」 ・「苫米地英人、宇宙を語る」 ・「洗脳原論」 ・「思考停止という病」 ・「すべてを可能にする数学脳のつくり方」 ・「「生」と「死」の取り扱い説明書」 ・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する」   大学教科書・専門書・医学書の買取サイト「専門書アカデミー」   ――この記事をちょっとでも面白い・役に立ったとお思いになりましたら、ぜひFacebook・はてブ・ツイッター等で共有していただければとてもうれしいです――

なぜ「夢を持つ」べきなのか? 大きな2つの理由

こんにちは、栗栖鳥太郎です。 前回は「ドリームキラー」、つまり他の人の夢やゴールを壊そうとする人が現代日本には蔓延しているということを書きました。 ではそもそも、なぜ人間には「夢・ゴール」が必要なのでしょうか。 ただ「夢を持て」とか「少年よ大志を抱け」と言われても、どこか釈然としません。 そこで、今回は「夢はなぜ必要なのか?」というテーマで書きます。 夢(ゴール)がないとどうなるか? 「他人の言いなり」になり、自分で選択できなくなる Googleの予測変換で「夢 持」まで入力すると、だいたいこんな感じの予測変換が出てきます。 「夢 持つ」 「夢 持てない」 「夢 持ち方」 「夢 持たない方が良い」 「夢 持ってない」 「夢 持つ 理由」   また、タモリさんが「夢を持つようじゃ人間終わりだね」と言っていたり、 ワタミの社長だった渡辺美樹氏がやっている、「夢教育」を掲げた郁文館夢学園というのが東京にありますし、また、愛知の至学館の校歌が「夢追人」だったりします。ブルーハーツの歌にも「夢」という曲があります。 このように、(少なくとも「夢やゴールを持たないほうが良い」という意見についてはこの記事の中で木っ端微塵にしておきますが)世の中でいわれている「夢・ゴール」というのはかなりいろいろな捉え方がなされているようです。   ただやはり、「なぜ夢やゴールを持つ必要があるのか」に誰もが疑問を持っているみたいですね。 これに関しては、正攻法で考える前に、 逆に、「夢やゴールを持たない人は、どうなるのか」を考えてみます。   ある程度は想像がつくことですが、そういう人は、 「自分以外の誰かによって与えられた選択肢のなかから、いちばん自分に合っていそうなもの・世間的に見て恥ずかしくないものを選ぶ」 ほかないはずです。   なぜなら、自分で「こうなりたい」「こういう世界にしたい」「こういうことを実現させたい」という主体的な考え方を持っていない以上、「そのためには、自分はこうするべきだ」という思考が主体的にできないからです。言い換えると、日々の生活の指針が定まっていない状態とも言えるでしょう。 おそらくそういう人は、「人生これでいいのかな」「なんか物足りないな」と漠然と感じてはいるものの、何をしたいのかがはっきりしないので、とりあえず目の前にある楽しいものを消費しながら「いまが楽しければいいや」というテンションで日々を送っているはずです。 ただ、そういう人であっても、人生の中では何らかの決断というか選択をしなければならない時が来るわけです。就活とか、進路選択とか、人生の分岐点に立たされたとき、かならず何らかの選択をしなければなりません。   そこで、そのときに目の前に出てくる選択肢の選び方ですが、 自分なりの夢やゴールを持っていない(=つまり、自分はこうすべきという確固たる指針がない)場合、 「とりあえず目の前にある選択肢のなかから、一番自分に合ってそうな、世間的に見て恥ずかしくない選択肢を選び取る」のではないでしょうか。   この場合、 「とりあえず目の前にある選択肢」とは「他人の手で与えられた選択肢」であり、 「一番自分に合ってそうな」とは「自分の能力はこの程度までだから、それにふさわしいものを」であり 「世間的に見て恥ずかしくない」とは「他人基準で判断すると恥ずかしくない」という意味になりますね。   わかりやすい例を挙げると、 「自分なりの夢やゴールを持たず、目の前にある選択肢のなかからとりあえず選択する」人が就活をするとき、 「とりあえず目の前にある、就活雑誌や企業リストのなかから」 「一番自分にマッチしそうな業界のなかの」 「周囲の人に無難に受け止められるか、称賛されるレベルの企業」   に入ろうとするはずです。   このどの基準も「自分のやりたいことを基準にしていない」という点では同じです。 「自分基準でないこと」とはつまり「他人の価値観に従って生きること」であり、 なぜ自分を基準にして判断できないかといえばそれは「夢やゴールを自分なりに持っていないから」だと思います。   「自分はこういうことを将来実現させたい。だからいまこういう会社に入るのが良いと思う」と判断したうえで就活するのとは、かなりの違いがあります。こちらはあくまでも自分に主導権があります。実現させたいことのために入るのですから、かなり主体的。自分の人生の主人公は自分だ、という感じです。   私は夢やゴールを持たないことを否定するつもりはありません。 しかし、少なくとも理屈で考えて、 「夢やゴールを持つとこういう人生になる可能性が高いよ、逆に持たないとこうなる可能性が高いよ」 ということは知っておくべきだと思います。知ったうえでどちらに転ぶかは当人の勝手であり自由です。   「世間的に聞こえがいいから」「給料が良いから」「友達に自慢できるから」というのはすべて他人基準であり、 他人によって与えられた尺度です。自分に主導権がないということになります。   ですから、「なぜ夢・ゴールを持つべきなのか?」についての第一の答えは 「夢もゴールもない場合、他人の価値観のもとで人生を生きることになるから」です。   それでも構わないならそれでもいいのですが、 もしそれが嫌なら、自分の夢やゴールを基準にして万事決裁すべきではありませんか、ということです。   (・・ひとつ注意しておかなければならないことは、「他人に与えられた夢やゴール」であってはならないということです。しばしば怪しい宗教団体やブラック企業では「これがあなたの夢ですよ。これが達成できなければあなたの価値はありませんよ」という洗脳的手法――たとえば、精神的肉体的に疲弊させた状態で何度も何度も社訓を復唱させたり、強制的に理念集を暗記させたりするなど――という「夢の授与」が行われています。夢はあくまでも自分が本当にやりたいことでなければならないもので、他人によって与えられた時点でやはりそれは他人の価値観でしかありません。「夢」を前面に押し出している団体には近づかない方が無難だと私は思います)   現状の外に出ることができない そもそもの話、「夢やゴール」というのは、「現状の外に置く」ことが絶対に必要です。 たとえば、「今いる会社の社長になる」「学校で一番の成績を獲る」というのは理想的な現状であって、ゴール・夢にはなりませんし、甲子園に出場経験のある学校が「甲子園に出る」というのは、まだ現状のなかにあります。 現状の外というのはつまり、 「どうやって達成するか想像もつかない」「他人から無理だよと言われる」レベルのものです。   論点先取みたいな言い方になりますが、「現状の外にある夢やゴールを持たない限り、現状をぶち壊すことは不可能」なのです。 なぜでしょうか。     それはまず第一に、「現状のなかに居続ける限り見えないものがたくさんある」からです。   現状の外にあるゴールを達成するためには当然、現状からは想像もつかないような方法が必要ですね。 たとえば、まだ人間が空を飛んでいなかった時代に「空を飛んでやろう」というゴールを設定したライト兄弟は、飛行機という画期的なものを発明しました。この突飛な発想は、空を飛んでやるというゴールがなければ出なかったものです。「人間が空を飛ぶわけがない」という現状のなかにいる限り、絶対に飛行機の発想は出なったはずです。   ちなみに、「やり方がわからないのに、どうやって達成するの?」と思われるかもしれませんが、 それについてはアメリカのコーチングの元祖ルー・タイスが「インベント・オン・ザ・ウェイ」と述べています。現状の外にゴールを設定してやれば、そこに向かっていこうとする途中で勝手にアイディアを思いつくという意味のことです。なぜ思いつくかというと、現状に縛られなくなるからです。現状という盲点だらけの状態から脱することができるからです。 現状にとどまるかぎり見えないものが、ゴールを本気で達成しようと動き出したとたんに、なんと、だんだん見えてくるようになるのです。ライト兄弟が「飛んでやろう」と思って実際にあれこれ考え始めてみると、それまでの現状からは決して見えなかったものが見えはじめてくる。「そうか、あれも使えるじゃないか」「そういえばこれも応用できるな」というアイディアが飛び出してくるようになっているのです。   つまり、夢・ゴールを持つべき第二の理由は、 「現状の外にある夢・ゴールを目指し始めると、現状のなかにいては決して見えなかったものが見えはじめるから」です。 「考える前に動け」とか「やってもないのに言うな」と言われるのはまさにこのためで、ゴール・夢に向かっていく過程で人間の脳は非常にクリエイティブにはたらきはじめるようになっているわけです。   逆に言えば、「やり方が想像もつかないもの」「自分がびびるほどのもの」「絶対に無理だからやめておけと言われる」くらいのものでないと、意味がないのです。そうでないと、脳がクリエイティブに働かないので、それまでの現状を打ち破るような画期的な方法は絶対に思いつきません。   夢やゴールは現状の外であればなんでも良いのです。 「すべての学問を極める」とか「世界から戦争と差別を無くす」とか、漠然としたもので良い。 そういうゴールを目指しているうちに「インベント・オン・ザ・ウェイ」で勝手にやり方をひらめきます。 「とにかくやってみろ」とか「考える前に動け」とか言われるのは、この現象があるからこそなのです。   今回はかなり簡易化して書きましたが、本来ここらへんはかなり込み入った話になるので、後日ひとつひとつ丁寧に解説した記事を上げます。   まとめ + 夢やゴールをなぜ持つべきかがもっとわかる本 さて、いかがでしたか。 夢やゴールを持つべき理由はほかにも山ほどあるのですが、 とりあえず主なものを二つ詳しく解説してきました。   「現代日本の若者は夢がない」みたいなことが言われますが、 少なくとも現代日本では「自分のやりたいことをやるという選択」ができるわけです。 若者に夢がないと言われるのはマスコミや大人たちが「安定した職業に就きなさい」みたいな刷り込みを仕掛けている結果であって、本来若者にはもっともっとエネルギーが秘められているはずです。   その国の人間の質を決めるのは教育であり、その国の未来を決めるのも教育です。教育がいい加減な国はボロクソの穴だらけになっていくはずです。若者に夢を与えよ、とは言いませんが、すくなくとも「若者の夢をつぶす」ような現在の教育環境はおかしいと思うので、今後も引き続きキーボードを叩きまくるつもりです。   夢やゴールが大切だと思ったら、 まずは「できるかできないか」ではなく、「やりたいかやりたくないか」で判断してください。 現代日本の人間にとっては「やりたいけど、自分には無理だ・・・」と思えるものこそが、夢・ゴールである可能性が高いはずです。   その「やりたいけど、自分には無理だ」ということこそが、やる価値のあるものだと思います。まず自分の心の中だけでもいいですから、考えてみましょう。 では、グッド・ラック!   ★おまけ 「夢を壊されたくない人」のためのおすすめ本★ ・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み切り、「ああ、この人はモノホンだ。うさんくさいっていう人もいるけど本物だ」と確信しました。この人の本を読むと、どんどん思考の盲点が外れて、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。また、「なぜ夢・ゴールを持つべきなのか」について知りたい場合は、「立ち読みしなさい!」がおすすめです。 以下におすすめの本を挙げておきます。 ・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術」 ・「ディベートで超論理思考を手に入れる」 ・「苫米地英人、宇宙を語る」 ・「洗脳原論」 ・「思考停止という病」 ・「すべてを可能にする数学脳のつくり方」 ・「「生」と「死」の取り扱い説明書」 ・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する」   大学教科書・専門書・医学書の買取サイト「専門書アカデミー」   ――この記事をちょっとでも面白い・役に立ったとお思いになりましたら、ぜひFacebook・はてブ・ツイッター等で共有していただければとてもうれしいです――    

「努力する人」と「努力しない人」の違いは何か

こんにちは、栗栖鳥太郎です。 先日「日本に蔓延している「努力教」という病理について」という記事を書いたのですが、 この「努力」というテーマについてもっともっと掘り下げる必要があるなと思いました。 今回は、みんな一度は疑問に思ったことがありそうなテーマです。 「努力する人」と「努力しない人」には、なんの違いがあるのか? 考えていきましょう。 おさらい:日本的な「努力」の意味 前回の記事から引用します。   日本的な努力の意味 しかし、日本人が「努力」という言葉を使うとき、「自分のゴールを達成するために」という最重要部分が抜け落ちてしまっているように私には見えます。努力自体が目的化してしまっているようにしか見えないのです。 努力を目的にしたらこうなる 「自分は苦しくても努力するんだ」という認識をしている努力家(心当たりありませんか?)がことごとく途中で燃え尽きてしまうのは、ここまで述べてきた原理を理解できていないからです。「自分は苦しいことをやっている。だから成功するんだ」という思考法では、間違いなく目の前の「努力」という重量物に負けます。 本当の「努力」の意味 しつこいようですが、あくまでも「努力」とは、 「<ゴールを達成するために>自分がいまやっていなければいけないこと」を、周囲の人間から見たときにそう見える、というだけのことです。本人にとっては、自分の居心地の良い状態に居続けようとしているだけなのですから、苦しいことをやっている、努力しているという感覚はありません。 詳しく説明するとまた字数が増えるので、このくらいにしておきます。   「努力する人」と「努力しない人」のちがい 多くの場合、「自分は努力しない人である」と思っている人から見ると、自分よりはるかに「やっている人」のことはまるで理解不能なのです。 「努力する人としない人の違い」という問いに答えるには、3つのレベルがあります。   ①「明確な方向性をもって努力する人」と「努力を極力避けて、なんとなく生きる人」の違いはどこにあるか 世の中には数多くの人がいますが、大きく分けて「明確な方向を目指して努力する人」と「努力を極力避けて、無難な道でなんとなく生きる人」に分かれます。 「努力をなるべく避けてなんとなく生きる」というとちょっときつい言い方かもしれませんが、大まかに言って、「他の人たち(親・友人・同僚など)と摩擦を起こさないように考えて方向を決める」「なるべく楽に、要領よく物事をこなそうとする」という傾向がある人です。   この両者の違いは、「後天的なゴール・目標を見つけたか」にあると思います。 たとえば、イチロー選手や本田圭佑選手のような人々は、野球やサッカーでトップになるという「後天的」なゴールを見つけた人です。後天的に見つけたゴールを達成するために、高いリスクを払ってでも努力できる人とも言えます。   その一方で、実は、「極力努力を避けるタイプの人」もゴールを持っています。 それは「自分の遺伝子を保存する」という、人間がもともと持っている目標で、この目標を効率よく達成するために、「世間的に見て無難な職に就いて、なるべく事を荒立てずに過ごす」という戦略をとると思われます。つまり、リスクを減らして、極力平坦な道を進んでいこうという志向を持っているということです。これは決して悪いことではなく、「リスクを減らす」という一つの選択をしたというだけです。   「なんとなく生きる人」がまったく努力をしていないということではなく、あくまでも、リスクを回避して効率よく生きるという道を選んだというだけです。 逆に、「後天的なゴール」を見つけた人は、高いリスクを払います。スポーツであればケガや日々の練習のキツさ、勉強や人助けであればかなり頭を酷使しなければなりません。リスクをとって大失敗するかもしれない代わりに、成功したときのリターン・充実感はかなりのものです。   「明確な方向を目指して努力する人」と「努力を極力避けて、無難な道でなんとなく生きる人」の違いは、 ①先天的なゴールに従うか、後天的なゴールに従うか ②リスクを避けるか、リスクをとるか の二点にあると私は思います。   ②「めちゃくちゃ努力できる人」と「そこそこ努力できる人」の違いは何か 「その人の哲学がどれだけ練り上げられているか」だと思います。   「哲学」というのは大げさな言い方かもしれませんが、言い換えると「自分の中での考え」です。 他人にどう言われようと、どれだけ誘惑に出会おうと、「いや、自分としてはこう思うから、自分のやりたいことをやる」という反論をすることができれば、それは哲学を持っていると言えます。 つまり、「めちゃくちゃ努力できる人」は、「自分はこういうゴールを持っていて、そのためにはこういう障壁もあるけど、それはこういう風に乗り越えて…」「人生は一度きりなので、一生懸命に生きるか、適当に生きるか。適当に生きるのは誰でもできるけど、死ぬときに後悔するだろうな。なら一生懸命やってみよう」という論理の体系を持っているということです。 「そこそこやる人」は、まだこの論理体系が弱い人のことですが、これから哲学を練り上げていくという途上の人になります。そのうち「めちゃくちゃ努力できる人」になるかもしれません。   この哲学が強いほど、努力の度合いも高まっていきます。   ③「死ぬほどやる人」と「そこまで行けない人」の違いは何か 「死ぬほどやる人」と「そこまで行けない人」の違いは、 ①ゴールの高さ ②それをどれだけ強烈にイメージしているか だと思います。   有名な話ですが、日本を代表するボディビルダーだった故・マッスル北村はコンテストに向けての減量をやりすぎて「餓死」しました。筋骨隆々の状態での餓死ですから、いかに過激なやり方をしていたかわかります。彼の過酷なトレーニングは、調べていただければどれほどのものかがおわかりになるでしょう。 あれだけの猛烈なトレーニングをこなすためには、相当高い志がなければならなかったはずです。そうでなかったら、「ま、この辺でいいか」という妥協が入り込みまくりだったでしょう。 実際、マッスル北村の『ボクの履歴書』には、彼が「世界で戦うためには~」という高いゴールを持っていたことを窺わせる描写が数多くあります。普段のトレーニングから「自分が世界で戦えるようになるには、ここで手を抜くわけにはいかない!」と思っていたことが推測できます。 ちなみに、練習を積んで上のレベルに行く人というのは「限界的練習」というトレーニングをしているそうで、これは「今の自分の限界をちょっとだけ更新し続ける」ものです。かなりキツいトレーニングになることは間違いないので、この限界的練習を続けるためには、高いゴールに対して強烈な臨場感を持っていなければなりません。   マッスル北村の例からわかるように、「死ぬほど努力できる人」は、 ①「現状のままでは絶対に達成できない、高い高いゴールを持っている」 ②「それを強烈にイメージし、現在の自分のあるべき姿を思い描いている」 という二つの条件をクリアしていると言えます。   まとめ + もっと上のレベルに行きたい人へ さて、いかがでしたか。 「努力しろ!」と言う人は多いですが、そうやって他人に押し付ける人はだいたいの場合、どうやって努力するかは教えてくれません。どうやって努力すべきかもわからないのに努力しろというのも無理な相談でしょう。   適当な努力より、考え抜かれた努力をやっている人の方が充実しているはずです。 「努力努力ゥ!」と努力を目的にするのではなく、努力の方法論について一度考えてみると良いと思いますよ。   では、グッド・ラック!   ★おまけ 「頭を良くしたい人」のためのおすすめ本★ ・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み切り、「ああ、この人はモノホンだ。うさんくさいのはアレだけど本物だ」と確信しました。この人の本を読むと、どんどん思考の盲点が外れて、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。今回の記事で述べた理屈は、ほとんどこの人の理論を応用して考えたものです。 以下におすすめの本を挙げておきます。 ・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術」 ・「ディベートで超論理思考を手に入れる」 ・「苫米地英人、宇宙を語る」 ・「洗脳原論」 ・「思考停止という病」 ・「すべてを可能にする数学脳のつくり方」 ・「「生」と「死」の取り扱い説明書」 ・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する」   大学教科書・専門書・医学書の買取サイト「専門書アカデミー」   ――この記事をちょっとでも面白い・役に立ったとお思いになりましたら、ぜひFacebook・はてブ・ツイッター等で共有していただければとてもうれしいです――  

日本に蔓延している「努力教」という病理について

こんにちは、栗栖鳥太郎です。 なにかで結果が出なかったとき、「努力が足りないんだ」「もっと努力しておけばよかった」と思う人は多いはずです。「一流の人は、あれだけ血のにじむような努力をしたから成功したんだ」とも言います。 しかし、私は常々、「日本人は、努力という言葉を使って、いろいろなことをごまかしているのではないか」と思っています。 よく苫米地英人氏が言っているように、21世紀の現代に、「根性」と「努力」という言葉はもういらないのです。 この「努力」というテーマで今回は記事を書きます。 日本人が「努力」という言葉を使うときのニュアンス イチローの「努力」観 野球界で有名な、ある偉大な選手による言葉があります。 努力せずに何かできるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうじゃない。 努力した結果、何かができるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうだと思う。 人が僕のことを、努力もせずに打てるんだと思うなら、それは間違いです。 ――イチロー この言葉をもとに、日本の野球界では 「一流になるためには努力が必要なんだよ」 「努力は必ず花開くんだよ」 みたいなことが言われています。   つまり、この言葉の意味としては 「努力=苦しいもの・継続しなければならないもの」 「努力=続けていくことによって、大成する可能性があるもの」 なのです。   しかし私は、「努力すれば報われる式思考法」はまったくの間違いだと思っています。 詳しい理由は以下に書き連ねていきますが、これはきちんと根拠があって言っていることです。   「努力」という言葉によって隠れてしまっていること イチロー選手が「努力」という言葉を使うとき、彼の本当に言いたいことが隠れてしまっているように思えてなりません。 イチロー選手にとっての努力とは、「野球界のトッププレーヤーとして進化を続け、誰も到達しなかった域に至るためにやるすべてのこと」でしょう。これは子供のころから(卒業文集が有名ですね)イチロー選手が考えていることです。 つまり、イチロー選手にとっては「自分がトッププレーヤーになる」という目標がまずあって、それに至るために「当然やるべきこと」を日々しているだけ、という感覚なのだと思われます。それはメジャーリーガーになった今も変わらず、おそらく「トッププレーヤーとしてあり続ける・進化し続ける・できる限り長くやる」というゴールがあって、そのために「自分がいまやるべきだと思うことをやっている」のでしょう。   当たり前ですが、「自分が当然やるべきだと思っていること」は、周囲の人からすると「努力している」ように見えます。 つまり、先にも言った通り、日本人の努力という言葉の使い方からすると、 「イチロー選手は、苦しいはずなのに毎日努力している。それほどの努力をしたから大成したんだ。」 と表現されるのです。   しかし、そのような言い方はおそらく(私はイチロー選手ではないので断言はできませんが)、イチロー選手の感覚とズレています。 なぜなら、イチロー選手にとっての努力とは、「<自分のゴールを達成するために>当然やるべきすべてのこと」だからです。球場に誰よりも早く来てストレッチを行うのも、深夜までひたすらバッティング練習をしていたのも、最新のトレーニング機器を導入したのも、すべて「自分のゴールを達成するためにはこれが必要である」と判断してのことでしょう。 イチロー選手にとっての「努力」=「自分のゴールを達成するためにやるすべてのこと」(周囲の人には「苦しいことを進んでやっている」ように見える)こそ、本当の意味での「努力」です。   しかし、日本人が「努力」という言葉を使うとき、「自分のゴールを達成するために」という最重要部分が抜け落ちてしまっているように私には見えます。努力自体が目的化してしまっているようにしか見えないのです。   日本人が「努力」という言葉を使うときには、「ゴール設定」が欠けている もう一度言い直すと、日本人が「努力」という言葉を使うときには、 「努力というのは、<本人がゴールを達成しようとするために>当然いまやるべきすべてのこと」 という観点がすっぽりと抜け落ちているのです。 ゴールに関係のないことをいくら頑張っても「努力」ではないし、ましてや努力自体が目的になるなんて言語道断です。   「ゴールを達成する」という目標があってこそ、「そのために自分は、当然いまこうしていなければならないはずだよな」というコンフォートゾーン(そこにいると落ち着くゾーンのこと)が設定され、そこに居続けようとする気持ちも起こるのです。つまり本人にとっては「自分の居心地の良い空間に居続けている」だけです。 たとえば、イチロー選手のゴール(おそらく、MLBのトップ選手として、誰も到達しえなかった域まで進化し続けること?)からすると「毎日球場に早く来て、誰よりも自主練習をして・・・」というのがコンフォートゾーンになっているはずですから、逆にそれをやらないと気持ち悪くて仕方がないのです。   「自分は苦しくても努力するんだ」という認識をしている努力家(心当たりありませんか?)がことごとく途中で燃え尽きてしまうのは、ここまで述べてきた原理を理解できていないからです。「自分は苦しいことをやっている。だから成功するんだ」という思考法では、間違いなく目の前の「努力」という重量物に負けます。 苦しいことをやるのは辛いので、必ず脳が「もういいや」と投げだします。脳は苦しいことをやるようにはできていません。苦しいことは最大限避けようとするのです。つまり、「苦しいことをやらなくていい理由」をいっぱい考え付くわけです。つまり、「努力なんてしなくていいや」という合理化が一生懸命になされるのです。   ・・・こういうわけで、日本人の「努力」観は間違っています。努力自体が目的になっているという意味で、「努力教」と言ってもいいかもしれません。努力教に入信すると遅かれ早かれ鬱状態になるはずです。苦しいことをひたすらやっていくのだ、という思考方法では鬱になって当然です。 この日本独特の「努力観」は、おそらく戦時中の日本軍や、飛田穂洲の提唱した 「野球道」の理念から発生し、戦後の高度経済成長期の成功によってより強固なものとして人々の間に広まったものと思われます。当時の、貧しい時代状況であればこそ「やりたくないことを黙ってやる」というのもかなりの程度は必要だったのでしょうが、物質的にははるかに豊かになった現代社会でも同じようにやるべきだ、とは思いません。   しつこいようですが、あくまでも「努力」とは、 「<ゴールを達成するために>自分がいまやっていなければいけないこと」を、周囲の人間から見たときにそう見える、というだけのことです。本人にとっては、自分の居心地の良い状態に居続けようとしているだけなのですから、苦しいことをやっている、努力しているという感覚はありません。   まとめ + 「努力したくない人」のための本 さて、いかがでしたか。 今回さんざん述べてきたように、一般に言われている「努力」というのはかなり怪しい概念です。   「おまえは努力が足りない」とか 「努力すればイチローになれる」とか 「成功者はみな努力している」といった言い方は、 努力という抽象的な概念を好き勝手に使って自分の言いたいことを押し付けているように見えます。   「努力教」は相当根強く日本に根付いているようなので、これからも継続してこのテーマを扱っていこうと思います。 「努力」ではなく、あくまでも「自分のゴールを達成するためにやること・やりたいこと」だけをやりましょう。 では、グッド・ラック!   ★おまけ 「頭を良くしたい人」のためのおすすめ本★ ・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み切り、「ああ、この人はモノホンだ。うさんくさいのはアレだけど本物だ」と確信しました。この人の本を読むと、どんどん思考の盲点が外れて、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。今回の記事で述べた理屈は、ほとんどこの人の理論を応用して考えたものです。 以下におすすめの本を挙げておきます。 ・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術」 ・「ディベートで超論理思考を手に入れる」 ・「苫米地英人、宇宙を語る」 ・「洗脳原論」 ・「思考停止という病」 ・「すべてを可能にする数学脳のつくり方」 ・「「生」と「死」の取り扱い説明書」 ・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する」   大学教科書・専門書・医学書の買取サイト「専門書アカデミー」   ――この記事をちょっとでも面白い・役に立ったとお思いになりましたら、ぜひFacebook・はてブ・ツイッター等で共有していただければとてもうれしいです――  

【頭が悪くなる方法】「感情」と「論理」をごっちゃにして議論する

こんにちは、栗栖鳥太郎です。 今回は、「論理と感情の分別」について書きます。 日本人は論理的思考能力が弱いと言われて久しいですが、その主要因がここにあると思っているからです。 「論理」と「感情」は、切り離して考えるべきです。 そうでないと議論に弱いままですし、そもそも議論になりません。 今回の記事は、「空気」というあいまいなものに頼って判断するということに慣れてしまった、論理に強くなりたい人のために書きました。 日本人には多い? 「論理と感情がごっちゃになる人」 「あなたの人格」ではなく「あなたの展開する論理」をめぐって議論している 上司や友達、先生、親に対して、 「あなたの言うことは、これこれこういう理由でおかしいと思います」 ってはっきり言えますか?   あるいは、 「私はこういう考えを持っている。だからあなたの考えとはこういう点で異なりますね」 といったように、自分の論理・相手の論理をはっきり区別できていますか? 出来る人は、おそらく少ないと思います。   それはなぜかといえば、「相手の人格を攻撃している気分になってしまう」からではないでしょうか。   「あなたの言っていることは論理的に間違っている」と言われると、 なぜか 「それはオレをバカにしているのか?」 みたいな無条件反射の怒りを発する人がいるのです。   ちょっと待ってください、あなたを人格批判したわけではありません。 「ばか」「あほ」「間抜け」って言っているわけじゃないんですから。   あくまでも、「あなたが間違っている」のではなく、「あなたの言っていることは、こういう点において、論理的に筋が通っていないのではありませんか」 と指摘しただけです。 それがなぜ、「オレを馬鹿にしている」になるのでしょうか。 これは「感情と論理をごっちゃにする人」の典型例です。   そもそも、論理がなぜ存在するかと言えば、「論理によって考えられた物事は、説得力があるし、間違っていれば論理による反論ができるので、だれにでも通用する可能性が高い」からです。たとえば学会の論文なんかはその典型的なもので、論理論理で押していくからこそ世界中の異なる言語圏の学者たちにも通用するのです。   その一方で、「感情」というものは、「だれにでも通用する」ものではありません。 あくまでも感情はその人個人のなかでしか、あるいは特定の集団のなかでしか通用しないものです。 「ウチの学校のタッちゃん(仮名)はマジすげぇ武勇伝持ってるから」というのは、その学校の中でしか通用しません。   つまり、物事を先へ先へと進めようとする限り、「感情」ではなく「論理」に基づいた議論が必要なのです。 論理で話せば、間違っているところは修正できます。 「こういう論理より、こっちの論理の方が、こういう点で優れているから、こっちを採用すべきだよね」とできます。   でも感情で話せば、間違っているところは修正できません。 「自分が間違っている?相手の言ってることが正しい? キーッ、悔しい、しね」が入ると、もうそこで議論はストップします。   ですから本来、論理的に考えて間違っているのなら、その意見は即座に改めるべきです。 なぜなら、論理的に考えておかしいなら、他にその意見を正当化する有効な手段はもう残っていないからです。 論理で通せない以上、もう「詰み」です。感情を使って意見を正当化するのはアンフェア。   ぶっちゃけた話、論理で考えられない人にとっての最後の砦が、思考放棄の末の「なんとなくこれが正しい気がする」「自分の言っていることは常識的・みんなと一緒だから正しい」なのです。これは論理による反証ができないため、フェアではないのです。   議論に感情を入れると、しまいには「オレの言うことが聞けないのかー!」みたいな滅茶苦茶な論理で従わせようとする人も出てきます。 やはり、議論と感情は「混ぜるな危険」ですね。   感情が入った時点で思考がストップする ここで、「感情が入る」ということはどういうことが考えてみましょう。   皆さんも経験的に知っていると思いますが、脳には「論理モード」と「感情モード」があります。 メジャーリーグの乱闘シーンなんかはまさに「感情モード」です。 論理的に考えれば、殴ったら退場になるし、罰金食らうし、ケガするし、相手と仲が悪くなるしで良いことはまったくないはずです。 しかし、「痛い!」とか「危ない!」といった反応の次に反射的に出てくる「てめえこの野郎!」という感情がとても強力なので、そういった冷静な判断は消し飛んでしまいます。   このように、感情が入っている場合の行動原理は「感情」です。「論理」じゃありません。 感情モードになっている人を論理で説得しようとしても無理です。 感情的になっている人は、いったん落ち着かせてからにするか、そもそも議論の相手にするべきではないでしょう。   あくまでも「論理的に考えて最善の選択をする」のがベスト 逆に、「論理モード」でいる限り、人間はかなり精度の高い選択をし続けることができます。 「論理だけの人間は冷たい」と思われるかもしれませんが、 べつに感情的にならなくても、人間には良心というものもあるのですから、論理的に考えつつ情緒のことも気にする、という芸当もできるのです。   感情というのは現代日本においては「娯楽」以上の意味を持たないと私は思います。 感情にまかせて相手をぶん殴って怪我させれば暴行罪で逮捕。 感情に支配されて相手をぶっ殺せば豚箱行きです。 感情のおもむくままに生徒を怒鳴りつける先生は、その場では気持ちいかもしれませんが、生徒に恨まれて将来ツケがまわってきます。 感情最優先で自分の言いたいことを通そうとする上司は、そこで成長がストップしたままです。   感情に任せるほうが都合が良いという時代も人類にはありましたが、生存が確保されている現代日本では、「感情は娯楽」です。生存のために、もはや感情は必要ありません。 たとえば、ホラー映画を見て「ギャー怖いー」とか、 プロレスの試合で「ぶっ殺せ!やっちまえ!」などと感じるのは良いでしょう。   でも、感情を議論の道具にするのはやめましょう。 それは卑怯ですし、議論がそこでストップしてしまいます。   どうすれば論理と感情の分別ができるのか では、論理と感情をセパレートするためには何をすればいいのか? が気になるところです。   実はそれは簡単で、 以下のことを心がけていくだけで、かなり論理と感情の分別ができるようになります。 1.「感情と論理をごっちゃにするのは、思考力が未熟な証」だとはっきり認識する 2.「データ・ワラント・クレーム」という論理の三本柱を学習する 3.読書する   1.は簡単ですね。この記事でさんざん述べてきました。 おそらく、この記事で散々あげつらってきたので、「論理と感情をごっちゃにしている人」を見た時の印象がガラリと変わっていると思います。自分はそうならないようにしましょう。   2.については、「あなたを支配下に置こうとする人の理不尽な物言いに騙されないための論理思考・超入門」に詳しく書きました。 簡単に言えば、日本人がよくやる主張の方法は 「こういうデータがある。だから、こうだ」というやり方です。 でも、「なんでそのデータから、そういう結論が導き出されるのか」という論拠がないため、簡単に反論できてしまいます。   たとえば、「こういうのが常識だ。だから、俺の言うことを聞け」に対しては、 「その常識ってどうして正しいんですか」 「常識は常識かもしれませんが、それはあなたの言うことを聞く根拠にはなりません」 といった反論(というより口答え)ができます。 詳しいやり方は「あなたを支配下に置こうとする人の理不尽な物言いに騙されないための論理思考・超入門」に書いてあるので、ぜひこちらも読んでみてください。   3.は言わずもがな。 作家や学者が世の中に自分の意見を通用させる時には「論理によって押し通す」のが普通です。 大抵の本は「こういう理由があって、だからこうです」という論理的手続きを踏まえて書かれているので、そういったものを普段から読んでいれば、論理的に考えるクセがついてくるでしょう。 また、読書をすれば、知識や反論のパターンなども同時に得られますから、より議論に強くなっていくことができます。 読書おすすめです。   まとめ + もっと頭を良くしたい人のためのおすすめ本 さて、いかがでしたか。 感情と論理をごっちゃにする人は本当に多くて、そのせいで議論が台無しになることが多々あります。   Youtubeのコメント欄とか、ツイッターの炎上とか、なんの根拠もなく感情だけで「おまえは間違っている!」と決めつける人は良く見ます。しかも、それを真に受ける人もまた多いというのも事実です。   感情ではなく、論理(と良心)を使いましょう。 これは世界を平和にする考え方だと思います。 では、グッド・ラック!   ★おまけ 「頭を良くしたい人」のためのおすすめ本★ ・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み切り、「ああ、この人はモノホンだ。うさんくさいのはアレだけど本物だ」と確信しました。この人の本を読むと、どんどん思考の盲点が外れて、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。感情や論理についての認識も改まります。論理思考についてもっと学びたい方は「ディベートで超論理思考を手に入れる」が特におすすめです。 以下におすすめの本を挙げておきます。 ・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術」 ・「ディベートで超論理思考を手に入れる」 ・「苫米地英人、宇宙を語る」 ・「洗脳原論」 ・「思考停止という病」 ・「すべてを可能にする数学脳のつくり方」 ・「「生」と「死」の取り扱い説明書」 ・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する」   大学教科書・専門書・医学書の買取サイト「専門書アカデミー」   ――この記事をちょっとでも面白い・役に立ったとお思いになりましたら、ぜひFacebook・はてブ・ツイッター等で共有していただければとてもうれしいです――    

もう〆切は気にしない。大量のレポート課題を「とても楽に」捌く方法

こんにちは、栗栖鳥太郎です。 大学では、ちょうど今が期末試験の季節です。 レポートに苦しんでいる人も多いと思うので、それに関連する記事を書きます。 今回は「限りなくラクにレポートを終わらせる方法」の特集です。 (ちなみに、このブログに載せるための記事を書くために使っている方法でもあります) レポート系の勉強は「机に向かう時間」をいかに減らすか 要領の良いヤツは、「物理的な勉強」をいかに減らすかを考えている 要領が良いヤツと、要領が悪いヤツ。 この世には両方います。 その差は何でしょうか?   私は、「物理的な勉強」をいかに減らして、「情報的な勉強」をいかに増やすか――がその差であると思います。 まずは、「物理的な勉強」「情報的な勉強」という概念を説明しましょう。 「物理的な勉強」…辞書を引く、マーカーを引く、付箋をつける、参考文献を読む、ペンと紙を使って考える など、物理的に時間がかかる勉強のこと。 「情報的な勉強」…頭の中でバーッと考える、レポートのあらすじを無意識にまかせて考える など、物理的な制約の少ない勉強のこと。 物理的な勉強が多ければ多いほど、「効率の悪い勉強」になります。 一方で、情報的な勉強が多いほど、「効率の良い勉強」になります。 では、細かく見ていきましょう。   書きながら考えるのではなく、書き始めるころにはもう考え終わっているのが当然 勉強時間が長いわりに成績が良くないという人の大半は、「物理的な勉強」に時間をかなり割いています。 「マーカーを引く」「アンダーラインを引く」「付箋を付ける」「辞書を引く」など。   レポートでいう物理的な勉強とは、「書きながら考える」ことでしょう。 書きながら、ウーンウーンとうなって、ああでもないこうでもない、ああやっぱり論理が破綻したからここらへんを削って・・・という試行錯誤をしているうちに、一時間、二時間、三時間と経過していきます。 どう見ても効率が悪いですね。 「時間をかけずに、時間をかけた場合と同じくらいのクオリティのレポートを仕上げることができる」方法があります。それが「レポートを、情報的な勉強方法で終わらせる」です。   では、情報的な勉強をするにはどうすればいいのか? それは簡単で、「頭の中で考え終わって」から、「あとはそれを文字に起こすだけ」というやり方にすればいいんです。 考える作業と、文字に起こす作業は別々にした方が絶対に速いです。 書きながら考えるのはなぜ遅いのでしょうか? 逆に、「なぜ頭の中で考えてから」「それを文字に起こすだけ」はなぜ速いのでしょうか?   「頭の中で考えて」いますか? これができればみんなの5倍速く課題が終わる 「書きながら考える」のは、物理法則という絶対的な制約を受ける上、後述するように「本来単一のことしか処理できない意識システムでいっぺんに二つのことをやろうとする」ので「遅い」のです。 しかし、「頭の中で考える」のは、ほとんど物理法則の影響を受けません。いくらでも速くすることができますし、いくらでも細かいところまで考えることができます。   以下は感覚的な話になりますから、よくイメージしながら読んでください。 理解できなくても構いません。 「レポートをさっさと片づけられる人はこういう感覚を持っている」ということだけ知っておけばOKです。 あなたもそのうち必ずできるようになります。   ・・・「頭の中で考える」感覚は、正直説明するのが難しいです。なんといっても文字通りですから。   逆に「頭の外で考える」感覚なら簡単で、こちらは「テレビをボーッと見ているとき」「上司に叱られて頭の中が真っ白になっている状態で、説教の内容を聞く」「授業中、先生に急に当てられて頭が真っ白になる」感覚です。   おそらく、「頭の中で考える」感覚として近いのは 「リラックスした状態で試験問題に取り組んでいるとき」 「自分の好きなことについて考えを巡らせているとき」です。   頭の中で考えると、「速い」んですよ。 どのくらい速いのかと言うと、「ドアノブを捻ってドアを開けるまでの間に、ある教科の全体像をサーッと復習できるくらい」速いです。   「頭の中で考える感覚」は、リラックス状態だと体感しやすいはずです。 まずは、椅子にゆったりと座って呼吸を整えて「さて、どんなレポートにしようかな」というテーマでできるだけ速く頭を回転させることから始めてみるといいかもしれません。 慣れてくると、スーッと一息吸う間に「今回のレポートは、こういうテーマで、自分はこういう知識を持っていて・・・」と考えて、ハーッと一息吐く間に「授業でこういうことを重視していたからそれを書いて、先生がよく言っていたこれも盛り込んで、だいたい3000字になるな。よし、こんなもんか!」くらいの速度で考えることができます。   そして、あとは文字に起こすだけ。 「書きながら考える」よりよほど速いです。 もう一度言いますが、これは魔法でも何でもなく、「誰でもできるようになる」ことです。   脳に「この課題を考えておいてね」とはっきり言い聞かせる 無意識をうまく活用してやればいい 「意識」は一つだけのことで手いっぱいになるんです。 その証拠に、「右手で文字を書きながら、左手で別の文字を書く」のがどんなに難しいか。 この例からわかるように、基本的に人間の「意識」は、いっぺんに一度のことしか処理できません。   でも、人間には「無意識」というものもあります。 意識が「わりと精密に、集中力を消費しながら、ひとつひとつ、遅く」処理していくのに対して、無意識は「大ざっぱに、四六時中、いっぺんに、速く」物事を処理するシステムです。 で、これが重要なのですが、「無意識がどう働くか」は、「意識によって間接的に変えることができる」のです。   たとえば、「レポートはこういう課題。私はこのレポートの内容を考える必要があります」とはっきり自分の意識に植え付けるといいんです。 意識が「これは重要な情報ですよ」というシグナルを無意識に送ってやると、四六時中休みなく働いている無意識にも「あれを考えておこう。情報収集しておこう」と伝わるんです。 そうやって命令してやれば、あとは無意識が勝手に情報収集してくれます。 「レポートの作成に役立ちそうなこと」を自動で拾ってくれる上に、「それを使えばだいたいこういうレポートができるな」という大ざっぱな演算もしてくれるのです。   無意識はうまく使えば、こうやって「レポートのあらすじ」を作ってくれるんです。   「集中執筆モード」のときだけ「意識」を使う 無意識が考えてくれた大まかなレポートの内容に沿って、あとは「意識」を使って論理的に詰めながら考えてやれば良いのです。その際、先ほど紹介した「頭の中で考える」のがベスト。 意識だけですべてをやろうとするより、はるかに楽ですし時間もかかりません。 レポートをラクに作りたいなら(もちろんクオリティの高いものを仕上げるためにもこの方法は大いに使えます)、意識と無意識の両方を活用しましょう。   一時的に頭のドーピングをする(イメージしながら高速音読) 文章力爆上げ + 頭の回転速度の爆増 + レポートの文献をざっと読める、という一石三鳥 高速音読をすると、こういう効果があります↓ ①文章力が爆上げされる ②頭の回転が速くなる ③レポートの課題文献をザーッと頭に入れるのにも使える など、一石三鳥ですね。   普通の勉強では、なかなか頭そのものを良くすることはできません。 高速音読は「頭そのものを良くする」「頭の回転を速くする」「根本的な頭のスペックを底上げする」という点において他の勉強法と一線を画したやり方です。   そんなこんなでテストに役立つ音読ですが、もっと知りたい方のために、 当ブログの過去の記事に詳しく書いたものがあります。ぜひご覧ください。 「【試験に苦しむ学生必見】最小の労力で最高の成績が獲れる! 「テスト前超音読」のススメ」   まとめ + もう勉強で嫌な思いをしたくない人のための本 さて、いかがでしたか。 今回の内容をおおまかにまとめると、 ①物理的な勉強を減らして、情報的な勉強を増やそう。「頭の中でレポートを一気に終わらせる感覚」が身に付けば、他の人の五倍速くレポートが終わる ②意識だけでレポートを終わらそうとするのはしんどい。でも、無意識をうまく活用すれば十分の一の労力で終わる ③高速音読すると、勉強がとてもはかどります の三点をおさえておいてください。   今回紹介したやり方をできるようになれば、滅茶苦茶ラクに、かつ質の高いレポートを量産することができます。 あなたも「要領の良いヤツ」になろうと思えばなれます。 まずは、今回紹介したことを試してみてください。 効果抜群でかつ簡単(やる気なんていらないんです)なものだけを厳選しましたから、必ず役に立ちます。   これまでの非効率的な勉強にオサラバして、レポートの魔術師になってください。 では、グッド・ラック!   ★おまけ 「頭を良くする」ためのおすすめ本★ ・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み切り、「ああ、この人はモノホンだ。うさんくさいって言う人もいるけど本物だ」と確信しました。うさんくさいのは、読みもしないひとが勝手に言っているだけです。この人のニコ生とか見たらわかりますよ。この人の本を読んでいると、どんどん今までの思い込みが外れていきます。   以下におすすめの本を挙げておきます。 ・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術」 ・「ディベートで超論理思考を手に入れる」 ・「苫米地英人、宇宙を語る」 ・「洗脳原論」 ・「思考停止という病」 ・「「生」と「死」の取り扱い説明書」 ・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する」   大学教科書・専門書・医学書の買取サイト「専門書アカデミー」   ――この記事をちょっとでも面白い・役に立ったとお思いになりましたら、ぜひFacebook・はてブ・ツイッター等で共有していただければとてもうれしいです――

「地獄のミサワ」は「果てしなくウザいけど将来大成する男」なのか?

こんにちは、栗栖鳥太郎です。 今回は、「地獄のミサワ」について自分が思っていることを書きます。 インターネットに住んでれば一度は見たことがあるはずです。 あの独特の、シュールでウザい主人公が癖になる漫画ですね。 今回は、あの主人公が将来大成する男かどうかについてケーススタディしていきましょう。 (ちなみに、正確には「地獄のミサワ」というのは漫画の作者の名前ですが、この方が通りが良いので、「主人公の名前」を地獄のミサワとして扱っています。また、そもそも原作者ではない人が描いた漫画もちょくちょく混じっていますが、描かれているキャラの性格自体は共通しているので、同じようなものとみなします) 地獄のミサワは将来大成する器か否か? 評価方法:「自己評価が高いか低いか」。自己評価が高ければ万事解決 「自己評価が高いか低いか」でかなり人生は左右されます。 いや、人生を決定づける最大のものが自己評価だと言っても過言ではありません。   自己に対する評価がバリバリに高い人は、周囲からすると「なんでそんなにのめり込んでいるのかわからない」くらいの努力を平気で継続します。そして、本人はそれを努力とは思っていないことが多いです。 ただ「自分はこれくらいやるのが当然だ。自分はスゴいやつなんだから、このくらいやらんでどうする」と思っています。「やらないと気持ち悪くてしょうがない」というのはプロ野球選手がよく言いますね。「素振りをしないと眠れなかった」とか。 本人にとって、努力しないのは「自分らしくない」から気持ち悪いのです。 「根性でもって努力する」わけではないのですね。あくまでも、本人がそれをすべきだと確信しているからやるというだけです。「これくらいのことをやるのは自分にとって当たり前」という基準値が高いだけなのです。   「自分は○○するにふさわしい人間だ」という高い自己評価を持っている人は、当然、日常生活でもそのように振る舞います。 周囲にいる自己評価の低い人たち(今の日本ではこっちの人が大多数でしょう)から見れば、なんとなく「自分たちとは違う、意識の高いヤツ」として、良くも悪くも特別扱いをされます。   当然ですが、その圧倒的な自己評価の高さを「他人には決して言わない」人もいます。本人の心の中にだけしまっておくことによって、周囲の「自己評価が低い人」からの余計な反発を食らわないようにしておくというスタイルです。そういう高い自己イメージが周囲に知れると「おまえ調子乗んなよ」「できるわけないじゃん」という余計なキラーワードをぶつけられてしまうので、黙っておく。そういう人もいます。   肝心なのは、「本人の心の中での自己に対する評価が高いか低いか」です。 圧倒的に自己評価の高い人ほど成功します。 当然ですね。 「自分はこれくらいやって当然だ」「自分は上手くやるのが当たり前の人間だ」という確信がありますから、人の何倍も努力しますし、本番にも強いのです。 いまはただの天狗であっても、その鼻を自分で縮めることさえしなければ、必ず後から実力が付いてきます。 なぜなら、人間は「自分らしいことだけをする」ようになっているからです。 「いまはまだヘボい自分」よりも「デキるようになっている自分」の方に自分らしさを感じることができれば、「デキる自分」になるように人間は行動するのです。   では、「○○するのが自分らしい」「自分は○○するのにふさわしい人間だ」といった自己イメージが高いか低いか――という観点から、地獄のミサワを分析してみましょう。   アピールしたがる ⇒ このままでは大成しない 寝てないアピールは自己評価の低さゆえ 「アピール」というのは自己評価に密接にかかわっています。 まず、「自己評価が低いから、言い訳をアピールする」ことがあります。 たとえば、期末テストの日なんかに「寝不足だわ~」「勉強してねえ~」というアピールをするのは、自己評価が低い人です。「良い点を取れないかもしれない」「失敗するかもしれない」という結果への恐怖を感じて、予防線を張っていくスタイルですね。 自己評価の高い人にとっては、「自分はテストで良い点を取って当然」「フル単は当たり前」ですから、そもそも「勉強したかどうか」「寝不足かどうか」など関係ないのです。そんなのはどうでもいいこと。 やれることを全力でやるだけ、というのが自分らしいと思っているはずです。言い訳する必要などありません。   また逆に、「自己評価が高いからこそ、成功をアピールする」こともあります。 「自分ってやっぱりすごいんだぜ。だって○○したんだから」というのを、自分の心の中だけではなく、周囲の人間にも聞かせるタイプです。 「成功するのが当然だと思っていれば、わざわざ成功アピールしないんじゃないの?」と思うかもしれませんが、 周囲の人間に注目させて協力者を増やすために意図的にやっている場合もあります。 (ただし、そういう自慢の対象になっているのはあくまでも「過去のこと」なので、やりすぎると過去に囚われるリスクもあります)   本題ですが、この漫画に描かれているミサワは、「自己評価が低い」と言えそうです。 自己評価が高ければ、こんなアピールなどせずにさっさと帰って寝るでしょうから。   他人の目に映る自分を気にしすぎている 自己評価の低い人は、他人からの視線を気にします。 逆に、自己評価が高ければ、「他人がなんと言おうと自分はすごいのだ」の一点張りですから、他人からの視線を気にすることなく自分のやりたいことを黙々とやります。他人の目に自分がどう映るかなどどうでもよく、自分の内部にある価値観に従って行動します。   このミサワは、「他人の目に映る自分を気にする」タイプですから、自己評価が低いと言えそうです。 しかも「それ誰情報?」というように、自分にとってどうでもいいはずのことを突っ込んで聞いていますから、あまり頭も良くないみたいですね。   周囲に「しょうもない不快感」を与える 「カチャカチャカチャ・・・・ッターン!」というのは昔からネットにあるネタです。 これ、部屋で自分ひとりでやるなら良いんですが、他の人がいるところでやると、周囲に不快感を与えます。 [youtube https://www.youtube.com/watch?v=R--vio7AAv8] 基本的に「しょうもないことでアピールする人は自己評価が低い」と言えます。 アピールするなら、自分が本当に磨きをかけているものでやりましょう。 日ごろからしょうもないことでアピールされると周囲がイライラし、本来得られるはずだった協力が得られない可能性があります。   さきほど「他人の視線を気にするな」と言ったので、それと矛盾するじゃないか! と思われる方もいるかもしれませんが、「他人の視線を気にしなくていい」のは「自分が本当にやりたいことをやろうと思った場合」です。(当然、やりたいことであっても犯罪行為は駄目です) エンターキーを高らかに押すのが「自分の本当にやりたいこと」ならまだしも、そういうわけではないでしょう。 しょうもないことで周囲に「要らぬ不快感」を与えていると、本来得られるはずの周囲の協力が目減りする可能性があります。完全に「要らぬ迷惑」です。周囲の目線を気にするなとは言いましたが、周囲に迷惑を積極的にかけるのは止した方がいいですね。   自分の評価が異常に高い ⇒ 大成する たとえ上から目線でも 見ての通り、自己評価が高いですね。 「お前すごいやつだな」と素直に言えるということは、「すごいけど、○○が~」というイチャモン付けよりよほど自己評価が高い人のセリフです。   ちなみに、本当に自分のことをスゴいと確信している人であれば、 「お前、すごいやつだな」という感じで相手を称賛しながら、 心の中で「お前はほんとうにすごいやつだな。それでこそ、<ものすごい俺>の親友にふさわしいぜ」くらいのことを思っています。 自己評価が高いですから、このミサワは大成します。   「○○できる自分」というポジティブな自己像を持っている 上司にマジギレされた場合、自己評価が低い人であれば「またやっちゃった・・・・どうしようどうしよう・・・あやまらきゃ・・・」って感じでオロオロするでしょう。 その点でこのミサワは一味違いますね。 ピンチをチャンスに変えています。   「マジギレされた直後であっても気にせず有給を取りに行けるくらい俺はスゴいんだぜ」というのは、 相当な自己評価がなければできない技です。この調子でいけば将来大物になります。   「○○は自分にふさわしいかどうか」を判断できている 二連発。 これもなかなか高い自己評価ですね。 「自分らしいことは○○である」「××は自分らしくない」という線引きをきちんとできているのは高得点。 「自分はすごいんだから、人前で痛がったりなどしないのだ」 「自分はすごいんだから、自宅の前でカツアゲされてても平気なんだ」 というのを自覚できています。 これが自己評価が低い人であれば、「痛い痛い痛い! 助けてー!」とか「カツアゲ怖いから回り道しよ・・・どうせ敵うわけないし」くらいのリアクションでしょう。   ちなみに「痛がる」で思い出しましたが、メジャーリーガーは死球を食らってもあまり痛がる素振りを見せません。 痛がっているのがバレると故障者リスト入りになって、マイナーから来た若手に取って代わられるという危機感があるからです。   そういう意味で、このミサワも将来かならず大成しますね。 自分はすごいんだという根拠なしの(根拠など要らないんです)確信があれば、どんな困難にブチ当たっても「おれはすごいんだから、こんなこと簡単に乗り越えてやるさ」くらいのメンタリティが保持できますから。   自己評価が低い ⇒ 大成しない 自分で自分の自己評価を下げに行っている 最後にダメな例を。 「どうせ」という言葉は、かなりマイナス点です。 「どうせ」というのは自己評価を激下げするワードですから。 この場合のミサワ君も、「どうせ俺なんか二週間でナメられるさ」という低い自己評価を持っています。   ただし、「たとえナメられても俺はすごいんだ」という心構えを持つようにできれば、このミサワも大成するかもしれません。   まとめ + 自己評価を高めたい人向けの本 さて、いかがでしたか。 自己評価が高いか低いか、という観点で人間の行動を分析してみると、かなりの程度「自己評価が高い人は、その人にとって意義のある行動をしている」ということがわかるはずです。   ちなみに私は、「インターネットは自己評価を下げやすい」という考えです。 2ちゃんねるやまとめサイトには芸能人のしょうもない悪口が並んでいますし、 「○○してないヤツは駄目」みたいな物言いがたくさんあふれています。 日ごろからそういう言葉を見聞きしていると、それが自分の無意識に溜まっていってしまいます。   自己評価の低い人がたくさん集まって固まってしまいやすいのがインターネットの特徴ではないか、と思うのです。   ネットは、上手に使えば自己評価を上げるための道具にもなります。 インターネットを上手に使って、自己評価の高い人になってください。 では、グッド・ラック!     ★おまけ 「自己評価を高めたい人」のためのおすすめ本★ ・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み切り、「ああ、この人はモノホンだ。うさんくさいってみんな言うけど、こいつは本物だ」と確信しました。この人の本を読むと、どんどん思考の盲点が外れて、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。論理的思考力もガンガン伸びて楽しいですよ。 以下におすすめの本を挙げておきます(Amazonにリンクしてあります)。 ・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術」 ・「ディベートで超論理思考を手に入れる」 ・「苫米地英人、宇宙を語る」 ・「洗脳原論」 ・「思考停止という病」 ・「すべてを可能にする数学脳のつくり方」 ・「「生」と「死」の取り扱い説明書」 ・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する」   大学教科書・専門書・医学書の買取サイト「専門書アカデミー」   ――この記事をちょっとでも面白い・役に立ったとお思いになりましたら、ぜひFacebook・はてブ・ツイッター等で共有していただければとてもうれしいです――    

APLICATIONS

「抽象度を上げる例とその効果」について書いてみます

こんにちは! 栗栖鳥太郎です! 今回は、苫米地英人氏が言うところの「抽象度を上げる」ことについて、私なりに理解したことをざっくばらんに書いてみたいと思います。 かなり抽象的な記事になりますが、読んでいただければ「ああ、こうすればいいのか」ということがよくわかると思います。   抽象度はこうやって上げる 前書き~「抽象度」って何?~ まず、「抽象度」という概念について軽く説明しておきましょう。   「抽象度」とは、苫米地英人氏が広めた(たぶん、作ったわけではないと思います)概念です。   抽象度とは、「その概念が、どれだけ潜在的な情報を内包しているか」についての度合いである、と私は理解しています。 言葉の使い方としては、「抽象度を上げる」「抽象度を下げる」という言い方をします。   たとえば、「いま自分が飼っているゴールデンレトリバーのラッキー」という犬について考えてみます。 「いま自分が飼っているゴールデンレトリバーのラッキー」というのは、この世界に唯一の存在です。 このとき、「ゴールデンレトリバーのラッキー」は、非常に具体的=「抽象度が低い」存在です。   これを、ひとつ抽象度を上げると「ゴールデンレトリバー」になります。 すると、いまここにいるラッキーだけでなく、世界中にいるありとあらゆるゴールデンレトリバーが内包されることになります。 つまり、潜在的に内包されている情報の量が上がったといえるわけです。   これについてさらに抽象度を上げると、今度は「犬」という概念になります。 「犬」という概念には、「ゴールデンレトリバー」も「チワワ」も「柴犬」も「土佐犬」も入ります。 またしても、概念に内包されている潜在的な情報量が上がりました。   ・・・という具合に、「抽象度を上げる」と、「その概念に内包される情報量」がどんどん上がっていく、という具合になります。 以上が「抽象度」についての説明です。 要するに、抽象度を上げていくと、どんどん概念のカバーする範囲が広くなっていくよ、という話です。     今回の記事の内容は、人によっては「うさんくさいな」と思われるかもしれません。 ですが、「ああ、こういうやりかたがあるのね」という思考の材料にはなると思います。   「抽象度を上げていく」具体例 では、実際にどんどん抽象度を上げていきましょう。 今から私が抽象度を上げながら物事を考えますから、私のあとについてくる感じで、イメージを膨らませてみてください。   まずは、「いまここに存在している自分」という、非常に具体的(=抽象度が低い)なところからスタートしましょう。 いまあなたは、どこにいるかはわかりませんが、パソコンの前か、スマホを手にしてこの記事を読んでいます。 視界は目の前の液晶ディスプレイに集中し、ほかのことはあまり目に入っていません。   ↓地理的な抽象度を上げます。   「いま、自分がいるここ」という超・具体的な場所からもっと視点を高く持って、 「いま、あなたがいる国」というスケールから、「いま、あなたがいる場所」を眺めてみてください。   イメージとしては、グーグルアースで現在地のズーム→日本国へとマイナスズーム、という具合です。 いまあなたのいる場所は、あなたのいる国全体から見るとじつにちっぽけなものです。   ↓もう一段階、地理的な抽象度を上げます。   では、 いま自分がいる国は、地球全体というスケールで見て、地球全体のどれくらいの面積を占めていますか? イメージするのは、たとえば「日本という国が、地球という巨大な球体からするといかにちっぽけなものであるか」。 太平洋の端っこのほうに引っかかっている、取るに足らないとても小さな島々にすぎません。   ・・・こうやって見ると、地球全体というスケールからすると、「いまあなたが存在している場所」は、「地平線までつづく広大な砂漠の中の、たったひとつの砂粒」に似ています。   ↓では、次は、「時間」の抽象度を上げていきましょう。   あなたがいま生きている時間は、「20○○年○月○日○時○分」です。 一秒一秒がカチコチと時を刻みながら、ゆっくりゆっくり進んでいるように感じるでしょう。   ↓時間的な抽象度を上げてみます。   いま、あなたが存在している「具体的な」時刻は「20○○年○月○日○時○分」です。 それは、「人類が文明を獲得してから、どれほど経って」いますか?   人類が表象という能力を獲得したのは、約「10万年」前。 あなたがいままで生きてきた年齢を何回も何回も繰り返さないと足りないくらいの長い長い時間です。   しかし、その長い長いように思える「10万年」という単位は、 「宇宙が生まれたのは137億年前」という事実の前では、霞みます。   「人類が生まれてからあなたが生まれるまでの間の長い長い時間」を「137000回」も繰り返せるだけの時間が、宇宙の年齢です。   ↓さらに時間的抽象度を上げると・・・   いままでしてきた話は、あくまでも「過去~現在」の話です。 時間は、「現在から未来へ」向かっても続いていきます。 今まで流れてきたのは137億年ですが、あなたの寿命が尽き、人類が滅び去り、地球が太陽に飲み込まれ、太陽が消滅したあとも、何億年、何百億年、何千億年と宇宙は続いていくでしょう。   ↓ 今度は、目先を変えて「ものごと同士の関係性」の抽象度を上げていきましょう。   あなたはいま、レストランに来ています。 目の前には、おいしいハンバーグステーキ(ベジタリアンの方は豆腐ハンバーグ)が置いてあります。   ↓関係性の抽象度を上げます。   このハンバーグは、どのようにして「いま、自分の目の前にある」ようになったのでしょうか。 まず、ハンバーグを、調理する人がいたはずです。 シェフやコックさんなどが料理してくれなければ、そのハンバーグは存在しません。   ハンバーグを、自分のところに運んできてくれた人もいます。 レストランのウェイターだけではなく、原材料のお肉を運んでくれた船、レストランまで材料を運搬してきてくれたトラック。   ↓さらに抽象度を上げます。   ハンバーグの肉が、アメリカ産の牛肉だったとします。 もしもアメリカという国がイギリスからの独立に失敗していたら、 もしもアメリカ大陸がまったく不毛の永久凍土だったとしたら、 もしも日本が太平洋戦争に勝利してアメリカを滅ぼしていたら、 いまあなたの前にハンバーグはありません。   もっといえば、人類が経験した今までの歴史上の出来事のうち、ハンバーグにちょっとでも関連するものが、なにかひとつでも違ったように起きていたら、 いまあなたの目の前にあるハンバーグは存在しません。   当然、「自分のところに届く過程のなかで何らかの不手際が起きなかったこと」も、関係性に含まれます。 食肉工場が経営破たんしなかったこと。 冷凍船が座礁したり沈没したりしなかったこと。 あなたが今現在に至るまで隕石の直撃を受けて死ななかったこと。 あなたの今いるレストランが自爆テロの標的にならなかったこと。 そもそもあなたが、レストランに行こうと思い立ったこと。   たまたま今回はハンバーグという例を出しましたが、この「関係性の抽象度を上げる」は、ほかのあらゆるものにも言えることです。 いま目の前にあるハンバーグだけではなく、それが載っている皿、レストランの天井からぶら下がっている照明、 後ろの席でおしゃべりしている女子高生、テーブル、窓ガラス、窓の外を走っている車の数々、etcetc・・・   このように抽象度をどんどん上げていくと、   あなたを取り巻くすべてのものが、 あなたが経験したすべてのものが、 あなたが経験しなかったすべてのことが、 あなたが認識できるすべてのものが、 あなたの認識できないすべてのものが、 切っても切れない関係性の網のなかに存在し、変容しつづけていることがわかるのです。   これが、釈迦のいう、 「すべての物事はそれ自体では存在しえず、ほかのあらゆる物事との関係性の中ではじめてその存在が縁取られる」という「縁起と空」の法です。 釈迦のいうところの「縁起」は、このような無数の網目状の関係性のことを指します。   たとえささいなものであっても、なにかひとつでも欠けていれば、「いまあなたの目の前にあるハンバーグ」という存在は、存在しませんでした。   抽象度を上げたり下げたりすることによって、以上述べてきたように、 「ふつうは気づかない、ものごと同士の関係性」に思いを致すことができます。

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