日本に蔓延している「努力教」という病理について

   

こんにちは、栗栖鳥太郎です。

なにかで結果が出なかったとき、「努力が足りないんだ」「もっと努力しておけばよかった」と思う人は多いはずです。「一流の人は、あれだけ血のにじむような努力をしたから成功したんだ」とも言います。

しかし、私は常々、「日本人は、努力という言葉を使って、いろいろなことをごまかしているのではないか」と思っています。

よく苫米地英人氏が言っているように、21世紀の現代に、「根性」と「努力」という言葉はもういらないのです。

この「努力」というテーマで今回は記事を書きます。

日本人が「努力」という言葉を使うときのニュアンス

イチローの「努力」観

野球界で有名な、ある偉大な選手による言葉があります。

努力せずに何かできるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうじゃない。

努力した結果、何かができるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうだと思う。

人が僕のことを、努力もせずに打てるんだと思うなら、それは間違いです。 ――イチロー

この言葉をもとに、日本の野球界では

「一流になるためには努力が必要なんだよ」

「努力は必ず花開くんだよ」

みたいなことが言われています。

 

つまり、この言葉の意味としては

「努力=苦しいもの・継続しなければならないもの」

「努力=続けていくことによって、大成する可能性があるもの」

なのです。

 

しかし私は、「努力すれば報われる式思考法」はまったくの間違いだと思っています。

詳しい理由は以下に書き連ねていきますが、これはきちんと根拠があって言っていることです。

 

「努力」という言葉によって隠れてしまっていること

イチロー選手が「努力」という言葉を使うとき、彼の本当に言いたいことが隠れてしまっているように思えてなりません。

イチロー選手にとっての努力とは、「野球界のトッププレーヤーとして進化を続け、誰も到達しなかった域に至るためにやるすべてのこと」でしょう。これは子供のころから(卒業文集が有名ですね)イチロー選手が考えていることです。

つまり、イチロー選手にとっては「自分がトッププレーヤーになる」という目標がまずあって、それに至るために「当然やるべきこと」を日々しているだけ、という感覚なのだと思われます。それはメジャーリーガーになった今も変わらず、おそらく「トッププレーヤーとしてあり続ける・進化し続ける・できる限り長くやる」というゴールがあって、そのために「自分がいまやるべきだと思うことをやっている」のでしょう。

 

当たり前ですが、「自分が当然やるべきだと思っていること」は、周囲の人からすると「努力している」ように見えます。

つまり、先にも言った通り、日本人の努力という言葉の使い方からすると、

「イチロー選手は、苦しいはずなのに毎日努力している。それほどの努力をしたから大成したんだ。」

と表現されるのです。

 

しかし、そのような言い方はおそらく(私はイチロー選手ではないので断言はできませんが)、イチロー選手の感覚とズレています。

なぜなら、イチロー選手にとっての努力とは、「<自分のゴールを達成するために>当然やるべきすべてのこと」だからです。球場に誰よりも早く来てストレッチを行うのも、深夜までひたすらバッティング練習をしていたのも、最新のトレーニング機器を導入したのも、すべて「自分のゴールを達成するためにはこれが必要である」と判断してのことでしょう。

イチロー選手にとっての「努力」=「自分のゴールを達成するためにやるすべてのこと」(周囲の人には「苦しいことを進んでやっている」ように見える)こそ、本当の意味での「努力」です。

 

しかし、日本人が「努力」という言葉を使うとき、「自分のゴールを達成するために」という最重要部分が抜け落ちてしまっているように私には見えます。努力自体が目的化してしまっているようにしか見えないのです。

 

日本人が「努力」という言葉を使うときには、「ゴール設定」が欠けている

もう一度言い直すと、日本人が「努力」という言葉を使うときには、

「努力というのは、<本人がゴールを達成しようとするために>当然いまやるべきすべてのこと」

という観点がすっぽりと抜け落ちているのです。

ゴールに関係のないことをいくら頑張っても「努力」ではないし、ましてや努力自体が目的になるなんて言語道断です。

 

「ゴールを達成する」という目標があってこそ、「そのために自分は、当然いまこうしていなければならないはずだよな」というコンフォートゾーン(そこにいると落ち着くゾーンのこと)が設定され、そこに居続けようとする気持ちも起こるのです。つまり本人にとっては「自分の居心地の良い空間に居続けている」だけです。

たとえば、イチロー選手のゴール(おそらく、MLBのトップ選手として、誰も到達しえなかった域まで進化し続けること?)からすると「毎日球場に早く来て、誰よりも自主練習をして・・・」というのがコンフォートゾーンになっているはずですから、逆にそれをやらないと気持ち悪くて仕方がないのです。

 

「自分は苦しくても努力するんだ」という認識をしている努力家(心当たりありませんか?)がことごとく途中で燃え尽きてしまうのは、ここまで述べてきた原理を理解できていないからです。「自分は苦しいことをやっている。だから成功するんだ」という思考法では、間違いなく目の前の「努力」という重量物に負けます。

苦しいことをやるのは辛いので、必ず脳が「もういいや」と投げだします。脳は苦しいことをやるようにはできていません。苦しいことは最大限避けようとするのです。つまり、「苦しいことをやらなくていい理由」をいっぱい考え付くわけです。つまり、「努力なんてしなくていいや」という合理化が一生懸命になされるのです。

 

・・・こういうわけで、日本人の「努力」観は間違っています。努力自体が目的になっているという意味で、「努力教」と言ってもいいかもしれません。努力教に入信すると遅かれ早かれ鬱状態になるはずです。苦しいことをひたすらやっていくのだ、という思考方法では鬱になって当然です。

この日本独特の「努力観」は、おそらく戦時中の日本軍や、飛田穂洲の提唱した 「野球道」の理念から発生し、戦後の高度経済成長期の成功によってより強固なものとして人々の間に広まったものと思われます。当時の、貧しい時代状況であればこそ「やりたくないことを黙ってやる」というのもかなりの程度は必要だったのでしょうが、物質的にははるかに豊かになった現代社会でも同じようにやるべきだ、とは思いません。

 

しつこいようですが、あくまでも「努力」とは、

「<ゴールを達成するために>自分がいまやっていなければいけないこと」を、周囲の人間から見たときにそう見える、というだけのことです。本人にとっては、自分の居心地の良い状態に居続けようとしているだけなのですから、苦しいことをやっている、努力しているという感覚はありません。

 

まとめ + 「努力したくない人」のための本

さて、いかがでしたか。

今回さんざん述べてきたように、一般に言われている「努力」というのはかなり怪しい概念です。

 

「おまえは努力が足りない」とか

「努力すればイチローになれる」とか

「成功者はみな努力している」といった言い方は、

努力という抽象的な概念を好き勝手に使って自分の言いたいことを押し付けているように見えます。

 

「努力教」は相当根強く日本に根付いているようなので、これからも継続してこのテーマを扱っていこうと思います。

「努力」ではなく、あくまでも「自分のゴールを達成するためにやること・やりたいこと」だけをやりましょう。

では、グッド・ラック!

 

★おまけ 「頭を良くしたい人」のためのおすすめ本★

・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み切り、「ああ、この人はモノホンだ。うさんくさいのはアレだけど本物だ」と確信しました。この人の本を読むと、どんどん思考の盲点が外れて、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。今回の記事で述べた理屈は、ほとんどこの人の理論を応用して考えたものです。

以下におすすめの本を挙げておきます。

・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術

・「ディベートで超論理思考を手に入れる

・「苫米地英人、宇宙を語る

・「洗脳原論

・「思考停止という病

・「すべてを可能にする数学脳のつくり方

・「「生」と「死」の取り扱い説明書

・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する

 

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