「やるか、やられるか」・・・スポーツの本質は”フェアな闘争”である

   

こんにちは、栗栖鳥太郎です。

最近このブログで意識的に取り上げているのが「スポーツ」というテーマなのですが、今回もスポーツについての記事です。

日本人はスポーツというと「根性」とか「団結」とか「努力」を思い浮かべる人が多いようですが、私はちょっと違った捉え方をしています。それは、「スポーツとはフェアな闘争である」という考えです。

詳しくは記事のなかで解説しますが、「スポーツとはフェアな闘争である」と考えると、いろいろ説明がつくのです。

「スポーツとはフェアな闘争である」

スポーツは「娯楽」であり、かつ「戦争の代理品」である

そもそも、スポーツというのは人間が生きていくうえでは本来必要のないものです。

スポーツがなくても人間は生きていけます。

野球がないと酸欠で死ぬわけではないし、サッカーがないと栄養失調で死ぬわけでもありません。

 

でも、現実にはスポーツというのは社会に深く根付いています。

それは、スポーツが非常に優れた「娯楽」であることが一つの理由でしょう。

スポーツ選手はたいていオーラがあって魅力的です。また、戦略や頭脳プレーといった要素もあります。動作の美しさや力強さ、素早さにも圧倒されます。実際にプレーしても、グラウンドの外から見ても、どちらでも楽しいものです。

いろいろな要素を含んでおり、多様性もあり、ボリュームも十分。

スポーツは、娯楽としてはかなり質の高いものです。

 

そしてもう一つ、スポーツは「戦争」「闘争」としての一面があるのです。

 

人間は古来から戦争・闘争をしまくってきました。

戦争では、勝者がすべてを略奪します。

土地、富、人材、資源、ありとあらゆるものが勝者のものとなります。戦いに勝ったものは栄え、敗れたものは滅ぼされる運命にあります。

勝ち誇る勝者の前に敗者たちはひざまずき、はいつくばり、平伏し、許しを乞い、ねじ伏せられ、思うがままに蹂躙されます。勝者は華やかですが、敗者はみじめな末路をたどります。

敗者となった側の男たちが処刑されたり奴隷に落ちたり、女子供が連れ去られたりします。敗者は「勝者より下にいるやつら」として徹底的に蔑まれ、侮蔑され、屈辱に悶えます。戦争に負けるということは、「あなたたちは生物として(あるいは種族として)我々より下等なのだ」という侮辱を受けることに等しいのです。

 

しかし、戦争はあまりにも物騒です。

人的資源が失われますし、勝者敗者ともに多大な損害を被ります。コスパでみれば、あまりにも良くない。

そこで「そうだ、スポーツが戦争の代わりになるじゃないか」というひらめきがあったのだと思われます。

 

実害を伴う戦争の代わりに、「ルールに則って平和的にやるけれども、闘争としての気晴らしはできるもの」としてスポーツが打ってつけなのです。

実際。三島由紀夫が『不道徳教育講座』のなかで書いていましたが、あの英国のとりすました紳士たちでさえボクシングの会場に行くと「ぶっ殺せ!」「やっちまえ!」と叫ぶのです。人間が本来持っている闘争本能を充足するものとして、スポーツはかなり効率的な手段だと判断されます。

 

典型的な例としては格闘技がそうですが、野球やサッカー、バレー、バスケ、その他どんなスポーツであっても「フェアな闘争」としての一面を持っているのです。ここでいう「フェア」とは、戦争のときのような実害(死人・けが人)を伴わないという意味です。スポーツでは「相手を傷つけるプレー」が批判されますが、それはフェアではないためにやり玉にあがるのです。

この意味で、サッカー日本代表が負けるということは、「きみたちの国は、私たちの国より弱いね」というレッテルを貼られることに等しいと思われます。スポーツに負けたときの屈辱感は、戦争に負けて蹂躙され略奪されたときの屈辱感にほとんど等しいはずです。

 

「才能が無いのになんでやるの?」という問いへの反論

あらゆるスポーツにはルールがあります。

「フェアな闘争」ですからルールがあって当然なのですが、ルールという縛り以外にも、スポーツには「縛り」が存在します。

 

その縛りとは、「個々人の才能の限界」です。

スポーツというのは肉体を使ってやるものですから、個々人の肉体の強さ・大きさにかなり依存します。

そして、肉体を設計するのが遺伝子である以上、人種の差や、遺伝によるハンデといった「壁」が必ず立ちはだかってきます。

 

有名な漫画「アイシールド21」にもこんなシーンがあります。

ちなみにこのアイシールド21のひとつの主題は「圧倒的な才能の差を目の前にしたとき、どうするか」というものです。面白いのでぜひ読んでみてください。

 

もちろん、トレーニングを積めば積むほど肉体は成長しますし、創意工夫したり、今までの常識を打ち破るような方法を考え付いたりすることによっても、選手は自己の能力をかなり飛躍させることができます。もともと大した素材ではなかった人が、徹底的なトレーニングや練習によって加速度的に才能を開かせてトップリーグ入りすることもあります。

 

それでも、「トップのトップ」になれる人と、なれない人が厳然と存在するのです。

「悪いなのび太、この一位の座は一人乗りなんだ」という具合に、70億人の人間が地球上にいるなかでナンバーワンになれるのはたったの一人だけです。陸上でいえばウサイン・ボルトが世界最速ですが、日本人の短距離トップランナーを10人くらい集めても、ボルトには及ばないのです。なぜならボルトは「トップのトップ」だから。

個人競技では特にこういう側面が強いのですが、団体競技でもこれは同じです。

 

たとえば甲子園であれば、全国4300校近くの参加校があって、甲子園制覇できるのはそのなかのたった一校だけです。どんなに「俺たちはかならず全国制覇を成し遂げる」と確信していても、実際に優勝できるのは一チームだけ。さらにいえば、仮に優勝できたとしても、それを守り続けることも難しい。2連覇したチームは数えるほどしかありません。

 

このように、スポーツをやっていると団体・個人関係なくかならず突き当たるものは

「勝てないかもしれない」

「限界にぶち当たるかもしれない」

という事実なのです。

 

ここで、私たちは二通りの反応ができます。

「どうせ才能はないし、気楽にやろう」

「全国制覇できるのは一校だけだし、俺たちができるわけないし、ほどほどにやろう。県大会のベスト8あたりまで行ければ御の字だよね」と考えるのか、

 

それとも

「才能はないかもしれないけど、それでもやろう」

「全国制覇できるかどうかなんて実際にはわからないけど、それでも、やる以上は全国制覇という目標を目指そう」と考えるのか。

この二つです。

 

どちらを選ぶかは誰も強制できませんし、本質的にはどちらでも構わないのですが、

私がより人間としての尊厳を感じるのはやはり後者です。

 

「勝てないかもしれない、限界にぶち当たるかもしれない」ということを十分に理解した上で、「それでも、やる」という選択を下す・・・というのは、人間としての可能性を探求する意志が感じられます。人間の限界を拡張し、常識をひっくり返せるのは、こういう選択のできる人間だけではないでしょうか。

 

「スポーツをやる」ということは、限界や敗北という厳しい現実を目の前にしてもなお挑戦し続けるという姿勢を身に付ける意味もあると思います。この意味でもスポーツは「闘争」だといえます。

ちなみに、この「それでもなお」の精神は、有名な『森田療法』にも通じる面があります。

詳しくは当ブログの過去記事「「苦しいけど、恥ずかしいけど、それでもなおやろうとする」ことの意味――「森田療法」を読む」をご覧ください。

 

肉体・物理世界という抽象度の低い世界で限界に挑む

前の節と同じような内容になりますが、基本的に

①「勝ち負けにこだわる」

②「肉体を使う」

③「物理世界で何かをする」

というのは、いずれも抽象度の低い行為だと言えます。たとえば、勝ち負けという二分法よりひとつ抽象度を上げると、「勝っても負けても本質的には変わらない」と考えることになります。

 

抽象度という言葉の説明はここではすっ飛ばしますが(検索すればわかります)、

①~③という行為についてもやはり二通りの思考をすることができます。

 

①本当であれば「勝ち負け」など存在しないのです。勝者も敗者も遅かれ早かれ滅ぶのですから、本当はどっちでも同じです。

②肉体というのは限界があります。肉体も、どれだけ鍛えてもいずれは灰になります。

③物理世界というのは法則だらけ(つまり束縛だらけ)です。人間が生身で飛ぶことはできませんし、100メートルを素足で三秒(=口裂け女・チーター)以内に駆け抜けることもできません。

 

あえて①~③では消極的な考え方をしてみました。

 

今度は積極的な捉え方をしてみましょう。

①たしかに、究極的には勝ち負けなど存在しない。しかしそれでもなお、勝つことにこだわる

②肉体には限界があるのは認める。しかしそれでもなお、人間の身体の限界に挑む

③法則だらけの物理世界に生きていてなお、それを自覚したうえで、できるだけの動きを極めようとする

という考え方もできるのです。

 

どちらを選ぶかは、やはり個人の自由です。

しかし、積極的な選択をするほうが、私には人間らしい生き方に見えます。

 

実際、仏教では「すべては空である」という言い方をして、「本当はどっちでもいいんだよ」と考えるわけです。

しかし、空については勘違いしている人が多い。

「すべてはかりそめのものである。だから何をやっても無駄だ」ととらえてしまう人が多いのです。

これだとペシミズムで、ニヒリスティックで、虚無主義的、非生産的です。

 

そうではなくて、

「すべてはかりそめのものである。だからこそ、積極的に選択していくのだ」という心機の転換をしていくべきです。仏教というのは本来そういう考え方をする宗教だったのですが、なぜか誤解され、歪曲されてしまったのが残念です。

(参照:宮崎哲也・呉智英『知的唯物論』Amazon)

 

ここでもやはり「それでもなお」の精神が生きてくるわけです。

スポーツをやる以上は、「限界があっても、敗北があっても、それでもなお挑み続ける」という精神を保持すべきだと思っています。

 

まとめ + 限界突破したい人のための本

さて、いかがでしたか。

スポーツについてここまで熱を入れて書いたのは初めてなので、私自身も新鮮な感じがします。

 

最近ある人が「スポーツというのはルールのある喧嘩だ」ということを言っていて、それもそうだなと思って書いたものです。

実際、スポーツができる人というのは、古代の戦士を連想させます。

スポーツのできる人というのは異性にもてますし、なによりスポーツのできない人に比べて段違いの魅力があります。野球やサッカーのトップ選手を見てるとそう思えてきます。彼らがかっこいいのは、古代の屈強な戦士を想起させるからではないでしょうか。

 

スポーツというのは、娯楽としても優秀ですし、闘争としてもやりがいがあります。

スポーツには、人間の文明を豊かに彩るという役目があるように思います。

楽しんでください。肉体的な苦しささえも楽しみに変えられる人は本当に強いですよ。

では、グッド・ラック!

 

★おまけ 「限界突破したい人」のためのおすすめ本★

・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み切り、「ああ、この人はモノホンだ。うさんくさいのはアレだけど本物だ」と確信しました。この人の本を読むと、どんどん思考の盲点が外れ、とらわれから自由になり、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。私がこのブログで言っていることの大半は、この人の理論を応用して考えたものです。限界突破をしたい人にもおすすめします。

以下におすすめの本を挙げておきます。

・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術

・「ディベートで超論理思考を手に入れる

・「苫米地英人、宇宙を語る

・「洗脳原論

・「思考停止という病

・「すべてを可能にする数学脳のつくり方

・「「生」と「死」の取り扱い説明書

・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する

 

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