このブログの方針について

   

こんにちは、栗栖鳥太郎です。

今回は、「わたくしごと」について書きます。

私事とは何かと言うと、「自分はこのブログを通じて何をしたいのか」「自分が向かっていく方向はどこなのか」というテーマのことです。

本来であればこれは、自分が使っているノートのなかにでも書き留めておけば事足りるものなのですが、あえて公開する理由は、「私の考えに触発される人がもしかしたら出てくる可能性がある」「私と同じようなことを考えている人がいたときに、勘合として使える」からです。

普段書いているような記事とは若干テイストもスタイルも異なる文章になりますが、ぜひご一読ください。

このブログ(と私)の向かっていく方向について

「理不尽な死のない世界」が見てみたい

私には、人生を終えるまでにかならず達成したい、いくつかのゴールがあります。

そのひとつが、「理不尽な死のない世界」というものです。

(本来ゴールというのは人に口外するべきではないのですが、あえて開示しておきます。たくさんあるうちの一つですから別に構わないでしょう)

 

「理不尽な死のない世界」といわれてピンとくる人は少ないでしょう。私が勝手に考えだした概念なので当然といえば当然です。

 

まず、「理不尽な死」とはいったい何でしょうか。

私の考えた定義は、「自分で納得のうえで選択するか、あるいは諦念により受容するか、このいずれかを経たうえでの死」です。つまり、「自分の意志で選ばれない死」のことです。

 

「自分の意志によらない死」とは、たとえば「戦争による死、病による死、事故による死、災害による死、飢餓による死、殺害による死」といったものを指します。理不尽な死とは、いま例示したようなものを指します。

 

一番わかりやすく単純に言えば、「理不尽な死」とはつまり、

「こんな死に方はしたくないな」と思ってしまうような死に方を指します。

たとえば先の例では、「戦争による死」というのがあります。

あなたがもしアフリカのコンゴの農村あたりの生まれだとして、それまではわりかし平穏で、貧しいながらも愛情のある生活を送っている15歳の少年だとしましょう。

 

ある日突然、爆音とともに村に武装車が乗り込んできて、村の男たちを片っ端から殺害し、女子供をさらっていく・・・ということが起こり得るわけです。あなたは子どもなので最後に見せしめとして殺されるか、少年兵になるための儀式として母親を手にかけろと言われるかするかもしれません。少年兵になったところで、大人の将軍にこき使われて特攻隊になって蜂の巣になるのがオチです。

いったいその15歳の少年の人生とは何だったのでしょうか?

 

先進国の人間がやっているように「自分は何のために生きているのか」を考えることもなく、満ち足りた生活のまま幸せのなかで死ぬということもなく、ただ地球上に存在する数十億分の一の命が減るというだけの結果。

これが「理不尽な死」の典型です。

 

これは実はここ最近のことなのですが、こういった「理不尽な死」を無くしたい、と痛切に感じました。

自分がいま送っている大学生活が、そういった理不尽な死を無くす方向にきちんと向いているのか? 授業や学問に中途半端な姿勢のまま取り組んで、自分の人生の安寧だけを考えて、安泰といわれる企業や職業でそこそこの年収を得て・・・という生き方でいいのか? たとえばいま自分は部活動をやっているけど、それによって満足を得たところで、自分の根底にある「理不尽な死に対する嫌悪感」は解消されないのではないか? 本当にこのままでいいのか? 自分や周囲の人間の人生の満足だけを考えて生きるというのは、社会性を持つ動物としては極めて視野狭窄で、本来の義務を果たしていないのではないか? 理不尽な死をなくそうとするのはたしかに大変なことで、とてつもない困難が伴うことは間違いないけれど、難しい課題であればあるほど人間の能力は上がっていくし、人生を懸けるだけの価値はあるんじゃないか・・・

 

そうやって悶々と考えているうちに、

「そうか、理不尽な死というものが減れば減るだけ、人類の幸福度はダイレクトに上がるなあ」

という確信が強まっていきました。わかりやすく言えば、病気で苦しんで死んでしまう人が減るというのは、すくなくともマイナスには絶対ならないよな、ということです。

・・となると、自分の生活はそっちの方に向けてやっていけば最高なんじゃないか? と思ったのです。

 

「死」という論点に絞って考えたのも、意味があります。

生物はみないずれは死ぬからです。人間は知恵がありますから自分の寿命を数倍にするくらいのことはできるでしょうが、それでもいつかは限界を迎えます。死が不可避であることから逃れる人間は誰一人としていないのです。死ぬというのは「しょうがないこと」です。たとえ脳を電子回路に移し替えることによって個人の意識を存続させたとしても、地球外に脱出したとしても、いずれは時空の力に負けて、死ぬことになります。

「みな死ぬ」ということは、人類すべてがいずれは死ぬということです。

したがって、「理不尽な死を無くす」というのは、人類数十億人に共通する死という現象にたいしてコミットすることにもなります。

 

「理不尽な死のない世界」を見てみたいというのはあくまでも私自身の個人的な欲望に過ぎませんが、「個人的な欲望が人類に貢献するものになっていれば最高だな」、と考えました。カントが述べたような「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法の原則に沿っていますから。

理不尽な死がなくなれば、(一部の狂人を除いて)人類はみんな喜ぶでしょう。

「理不尽な死のない世界を見てみたい」というゴールを設定しているのは、そのためでもあります。

 

「理不尽な死のない世界」にするために私ができること

とはいえ、「理不尽な死のない世界」を実現するのはクソほど大変に違いありません。

 

なんせ、WW2では8000万人も犠牲者が出ています。現在の世界でも紛争や小競り合いは絶えません。

病気でいえばエイズやエボラ出血熱といったものがありますし、飢餓で苦しんでいる人も大勢います。

ハリケーンが来るたびに死者が出ていますし、交通事故による死者は年間5000人ほど、殺人事件も数えきれないほど起きています。

 

まず考えなければならないのは、

①「どれほど完璧に環境を整えたとしても、多少は理不尽な死というものが生じてしまう」ということ、そして

②「自分ひとりの力で実現できることはきわめて微小である」ということです。

 

①については、まず優先すべきなのは「理不尽な死を根絶しきるのは難しいかもしれないけど、それでもなお根絶を目指す」ということです。

というのは、「理不尽な死を完全になくそうとする人にしか思いつかない、きわめて斬新なアイディア」が生まれる可能性があるからです。「理不尽な死をすこしでも無くそう」としている人は世界に結構な数がおられますが、「すこしでも無くす」というのはあくまでも対症療法的な思考法です。対症療法ももちろん重要ですし、私もそれをやるつもりですが、「理不尽な死を根絶するにはどうすればよいか」ということを徹底的に考えることのできる人も必要だと思います。

 

②については、「人間は完全情報=神ではない」ということになります。

噛み砕いて言えば、私はひとりの人間に過ぎないので、ほかの人と協力してコトに当たる必要があるということです。私の専門は倫理学で、これからほかの学問をやっていく予定ではありますが、それでもやはりカバーできない学問分野がたくさん存在します。数学、医学、物理学、化学、経済学、政治学、etc…すべてをやるのは物理的に無理です。

だからこそ、「その道のエキスパートたちを支援する」ことが必要になってきます。自分にできることが有限である以上、ほかの専門家の力を借りるのは当然でしょう。

 

ちなみに、私自身に関していえば、できるだけ幅広い学問についての深い知識を得ることが求められます。そうでないと「理不尽な死をなくす」ために必要なアイディアも醸成されてこないでしょうし、エキスパートたちとのつながりを確保することも困難になるからです。教養のない人間、つまり能力のない人間には「理不尽な死を無くす」ことなどできないでしょうから。

もっぱら「能力」という面においての障壁をとりのぞくために、私自身もメチャクチャ勉強する必要があります。

 

もうひとつ付け加えておくと、理不尽な死を無くすためにはどうしても「お金」が必要になります。

それも、年1000万円とかそういう話ではなくて、数千億円オーダーでの、あるいは数兆円という規模でのお金が絶対に必要です。お金があれば専門家の支援もできますし、もしかするとダイレクトにベーシックインカム制度などを開始できるかもしれません。

そのお金を集めるための第一歩として、現状から見れば「ブログ」というものはかなり使えると踏んでいるのです。ブログ、書籍といった知的活動は私の大得意とするところですから、これを足掛かりにして資金を確保していくことができれば・・・という目論見があります。

 

まとめると、「理不尽な死のない世界」のために私ができることは、

①自分の能力をひたすら上げる。学問など。

②お金を作る。まずはブログを利用する。

この二点です。

 

まずは日本国民の頭を良くするための情報を徹底的に公開し、誰でも簡単にアクセスできるようにしたい

②「お金をつくる」ためには、人の役に立つことが求められます。

社会の中で役割を果たすことができれば、その対価としてお金が入ります。

だから、私はお金を稼ぐために、何か「社会の役に立つこと」をする必要があるわけです。

 

そして、その「ひとの役に立つこと」として私が今のところベストだと考えているのは、「日本国民の頭を良くすること」です。これこそがもっとも効率が良いものであり、かつ自分に向いているものだと思います。(わざわざ日本国民に限定しているのは、ほかの国の人だと言語が違うので、ダイレクトには伝わらないからというだけです)

私の持論ですが、人間が抱えるだいたいの問題は「頭が良くなる」ことによってどんどん解決されていくと思います。ここでいう「頭の良さ」とは総合的なものであり、学力や対人関係能力といった幅広い分野にまたがるものです。

「頭の良いヤツが頭の悪いヤツから搾取しているじゃないか」と言われるかもしれませんが、ほんとうに頭の良い人であれば、利他的なふるまいをするはずだと思います。なまじ中途半端に頭が良いと、他の人をだましたりすることによって一時的な利益を得るかもしれません。しかし、「他の人を傷つけることによって得る利益」はどこか人間の良心に反することになります。良心を持たない一部の人を別にして、ほとんどの悪人は「これは悪いことじゃない」と自分に言い聞かせながら、あるいは思い込まされながら悪事をはたらいているはずです。それよりも、他の人のためになることをすることによって利益を得る方がよほど精神的な満足を得られる・・・ということに気付く頭の良さが必要です。

 

日本国民の頭が良くなればなるほど不幸な事態は減っていく、と私は考えています。

だからこそこのブログでは「頭が良くなる方法」を述べているのであり、今後も引き続き深化させていくつもりです。

 

「理想と現実のバランスをうまくとりながらバク進していく」ゲバラ主義

ところで、前述した「理不尽な死のない世界」というゴールというのは、ひとつの「高邁な理想」です。

そういった理想を掲げている人は、理想主義者だとか、机上の空論を振り回しているとか、そういった批判をされがちです。

 

そこで反論の代わりに、「ゲバラ主義」(おそらく苫米地英人氏の造語)という考え方を紹介します。

それは、「一方ではとてつもなく高い理想を掲げて、もう一方では徹底的に現実を見据えながら行動していくこと」です。キューバ革命の指導者であったチェ・ゲバラの行動方針をもとにしたものです。

私の場合は、一方で「理不尽な死のない世界」という理想を掲げながら、もう一方ではその理想に溺れたり理想を見失ったりすることなく、今自分の目の前にある現実に対してはたらきかけていくという道(つまり、目の前にある学問や勉強・読書・対人関係などをしっかりとやる)を選ぶ、ということになります。

 

えてして理想主義者は、かかげた理想が現実と乖離していることに落胆し、幻滅し、あるいは逃避するものです。そういったワナを回避するための方策として「ゲバラ主義」は有用です。

 

まとめ + 私が刺激を受けた本

さて、いかがでしたか。

今回述べてきたことは、よく「何を考えているのかわからない」と言われる私の心中です。

 

こうやって文章化することによって、より考えが深まった気がしています。

 

今後も、当分はこのブログを使って情報発信することによって、まずは「お金をつくること」「日本国民の頭を良くすること」を進めていこうと思います。

では、グッド・ラック!

 

★おまけ 私が大いに刺激を受けた本★

・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み、「ああ、この人は本物だ」と確信しました。この人の本を読むと、どんどん思考の盲点が外れ、とらわれから自由になり、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。私がこのブログで言っていることの大半は、この人の理論を応用して考えたものです。

以下におすすめの本を挙げておきます。

・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術

・「ディベートで超論理思考を手に入れる

・「苫米地英人、宇宙を語る

・「洗脳原論

・「思考停止という病

・「すべてを可能にする数学脳のつくり方

・「「生」と「死」の取り扱い説明書

・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する

 

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