「コミュ障」の根本原因は一体何なのか?

   

こんにちは、栗栖鳥太郎です。

今回は、久々に「コミュ障」について書いてみようと思います。

テーマは、「コミュ障の根本原因」。

インターネット上には「コミュ障あるある」「コミュ障にしかわからないこと」といった情報や、「コミュ障克服プロジェクト」「コミュ障を治すにはどうすればいいか」といった情報が氾濫しています。

しかし、「そもそもコミュ障というものはどうやって生まれるのか」について深く考えている人というのは案外少ないんじゃないかと思います。10人集まれば5,6人はコミュニケーション能力の不全感に苦しまされている時代ですから、私がここできっちりと私なりの考えを述べておくことには意味があるように思うのです。

そこで今回は、「コミュ障というものがなぜ生じるのか」という一点に絞って考えていきましょう。

 

<コミュ障の根本原因>

コミュ障を生じさせる三つの原因

世の中には、コミュ障な人もいれば、逆に人と接することが人生の喜びという人もいます。

他人に拒絶されることを恐れて常時戦々恐々としている人もいれば、逆に自分の言いたいことをどんどん言ってはばからないひともいます。この「差」はいったいなんなんだ、と。

たしかに、コミュ力の優劣というものは、才能、環境、努力と言った要因に作用されるはずですが・・・

では、両者を決定的に隔てているそもそもの根本原因は一体何なのでしょうか?

 

私がいろいろと調べて考えた結果、コミュ障の原因となっているのは次の3つの要素だ、という結論に辿り着きました。

①親による愛着が不足していたこと、周囲による承認が不足していたこと

②自分がどのような認知の枠組みを持っているのかについて一歩引いて考える力が不足していること

③そもそもの頭のスペックの問題

この三つが「コミュ障」を生じさせていると私は考えました。

順に見ていきましょう。

 

①親による愛着が不足していたこと、周囲による承認が不十分だったこと

人間というのは、良くも悪くも環境にかなり左右される生物です。

どんなに優秀な遺伝子を持っている子どもでも、たとえば「オオカミに育てられた」という場合にはその能力はまったく発現しないで終わるでしょう。環境が大事とはよく言われますが、「環境が人を七割くらい決める」というのが私の実感です。

 

そこで言いたいことがひとつ。

コミュ障であることに悩んでいる人には、ある程度共通した生育環境や経験が見られるのです。

「コミュ障あるある」というものが存在していること自体が、それを雄弁に物語っています。コミュ障であることに悩んでいる人々というのは、生育環境や、学校での不快な経験という点においてかなり似通っているのです。

 

そこで特に重要なキーワードとなるのは「愛着」と「承認」です。

大ざっぱに言えば、愛着とは「無条件で可愛がられること」であり、承認とは「条件を満たしたうえで、認められること」です。

つまり、コミュ障で悩んでいる人というのは「愛着不足」と「承認不足」がそもそもの根本原因だということです。

 

「愛着」は「信頼」のベースになります。つまり、親による愛着を十分に受けた人にとっては、自分以外の人間に対して『信頼』をベースに接することができます。

そして、

「承認」は「安心感」のベースになります。つまり、学校や社会における対人関係のなかで十分な承認感を得られた人は、自分という存在が存在していても良いのだ、という「安心感」を抱くことが可能になります。

 

その「愛着」と「承認」がどのように獲得されるのか、あるいはどのようにして傷ついてしまうのかという点をこれから見ていきます。人間の発達の段階を5つ程度に区分したうえで、「人がどの段階で、どのように愛着と承認を失い、コミュ障となっていくのか」を詳しく探っていきましょう。

 

1.0~3歳までの間の愛着不足

要するに、「赤ちゃん~幼稚園以前」の段階です。

この時期に十分な愛着が確保されるかどうかが、その後コミュ障になるのかそうでないのかの第一の分かれ目になります。

ここでいう愛着とは、つまり「両親、とくに母親により十分に愛情を注がれること」です。

「人間は三歳以前の記憶を持っていない」と良く言われるとおり、この時期に自分が周囲からどのような扱いを受けていたかは想起不可能です。しかし、そこで十分な愛着が確保されたかどうかが、その後の対人関係の不安に大きな影響を与えます。

 

もっとわかりやすくいえば、コミュ障とはこの時期に「親、とくに母親から拒絶or無視された経験が多い人」のことだと私は考えています。対人関係能力の基礎となる「他人への信頼感」がはぐくまれず、その後の対人関係は「相手は敵である」という前提に立つようになるのです。これは考えてみれば当然で、初めて接する他者である母親がもし「敵」であれば、それ以外の他者も「敵」である可能性が高い、という判断が下されるからです。

「コミュ障」の人に「もしかすると相手は自分のことを嫌いなのかもしれない」という心理を抱く傾向がある、ということがこれを物語っています。小さいころに母親からあまりかまわれなかったり敵視されたりした人は、「他人とは敵である」という信念を自分の中で形成していくというわけです。

逆に、幼少期における絶対的存在とも言える母親からじゅうぶんな愛情を注がれて育った人の場合は、他者への信頼感をベースしながら対人関係を成り立たせていくことが容易なのです。幼少期に母親にしっかりと受容された人ほど、「他人とは味方である」という前提を自分の中で強固にしていける、ということになります。

 

なお、父親について言っておくと、父親は母親ほどの影響力は持ちません・・・が、やはり影響は与えます。

「外界に対して主体的にはたらきかける存在」のロールモデルとして子どもの学習対象にはなりますし、父親が暴力的であったり威圧的であったりした場合には、それを模倣して自らの行動パターンの中に取り込むということにもつながります。

非常にざっくりまとめると・・・父親がいわゆる「リア充」だと、子どもはそれを模倣してどんどん外界に進出していくことが容易になる可能性が高くなる、ということです。

 

この節でみてきた「両親(とくに母親)による愛着が十分かどうか」というのがまず、その後の人生でコミュ障になるかどうかの第一分岐点になります。

 

 

2.思春期までの愛着・他者:学校や先生・友達による受容がなされるかどうか

「両親による受容」という関門をクリア―した人は、次の関所にさしかかります。

すなわち、「両親以外の他者により承認されるかどうか」というチェックポイントです。つまり「学校の先生・友達などによる承認を受けられるかどうか」です。

 

両親というのは基本的に、子どもを絶対的に肯定する存在です。

見返りも恩返しも期待せず、ただ「子どもが成長していくこと」を楽しみにします(多くの場合は)。

 

しかし、両親以外の他者というのは基本的に、あなたに奉仕する存在ではありません。

たとえば学校の友達であれば、「いっしょにドッジボールをすると楽しいから」「かけっこが速いから」「面白い遊びを知っているから」「上位のグループだから」といった他者による目線がかならず入ってきます。グループを作る際にも、たとえば「かっこいいかどうか」「おもしろいかどうか」「クラスの中での序列が高いか低いか」といったものが参考にされたりします。条件付きの承認という点で、親による肯定のあり方とは異なっています。

子どもを無条件で肯定してやれるのはまず第一に親ですが、第二第三の存在というのはめったに現れません。親が育児をネグレクトした場合、よほど幸運に恵まれた子供でもない限り、ほかの誰かによって絶対的無条件的な愛情を注がれるということはまずないのです。

 

私がここで言いたいのは、要は「両親という、あなたに無条件で奉仕してくれる存在による承認がなされたら、次は、あなたに無条件でつきあってはくれない他者からの承認が要りますよ」というわけです。日本の場合、「家庭→学校→社会」というステップがあり、そのそれぞれで「うまくやる」必要があるのです。

社会的承認の雛形として、まずは「学校という小さな社会」のなかで承認されるというステップを経験しておく必要があります。他者による承認を受けることのできない人は、社会(学校というのも一つの小さな社会です)から拒絶されていると感じます。両親からの愛着が不足していると他者に対して敵意を抱くようになりやすいのと同様に、他者による承認が不十分な人は「社会」を敵視しやすいと考えられます。

 

おそらく、1.の「両親による承認」というステップをクリアできるのは7~8割近くでしょう。

しかし、小学校・中学校・高校という思春期を終えるまでの約12年間で「両親以外の他者による承認」をクリアできるのは、私の目測ではおそらく「2~3割程度」にすぎません。これはだいたい、「リア充」と呼ばれる人の割合と同じです。球技が得意だったり、走るのが速かったり、コミュニケーション能力に秀でていたり、イケメン・美女だったり・・・といった素質のある人ほど、他者による承認を受ける可能性が高くなっていきます。逆に、そういった長所を持たない人であればなかなか周囲から褒められたり認められたりするという経験を積むことができないのです。12年間も過ごしていれば、そういう経験がどんどん重いものとして堆積していきます。「出来のいい」子はどんどん褒められる傾向があるのに対して、「出来のわるい」子は褒められるどころか、侮辱されたり、屈辱的な経験をすることの方が多くなっていくのです。正のスパイラルと負のスパイラルがあるというわけです。

 

他者による承認が十分になされて、「自分は存在していることが許されるのだ」という安心感を確立できた人だからこそ、数多くの人間に囲まれていながらも「自分はこうしたい」という意志表示ができるし、心理的な余裕も生まれるために他者にも十分注意が向いていて「気が利いている」と言われるのだと思います。

逆に、他者による承認(≒社会による承認)を受けて来なかった人は、「自分が話しかけても、どうせ嫌われるに決まっている」「リア充はいいよな、でもそれに比べて自分は・・・」といった消極的な考えをすることが常習化していきます。他人との関わりが苦痛に満ちたものになりがちなので、「他人なんてどうでもいい」「自分が消滅すればこの世界も消滅する。自分がどう思うかが重要であって、他人がどう思おうと知ったことか」といった独我論的なスタイルで理論武装していくことも想定されます。

 

1.の「両親による愛着」というステップをクリアできるのは7~8割近く。

しかし、2.の「他者による承認」をクリアできるのは、ガクンと落ちて3割程度。

12年間「うまいことやり続ける」のはかなり難しいということです。

 

では、そのうまくやった3割の逆サイド、つまり「残りの7割くらい」はどうなるかといえば、まさにこの人々こそが「コミュ障」の範疇に入ってくる人々です。

つまり、思春期を終えた時点での「順位表」はおおよそ次のようになります。

 

①親による承認も、周囲による承認も十分だった人が2~3割程度

②親による承認はクリアしたが、周囲の他者による承認が十分でなかった人が6~7割程度

③親による承認をあまり受けられなかった人が2~3割程度

こんなものでしょう。

結果的に、これはほとんど、いわゆる「2:6:2の法則」と同じです。

 

さて、思春期が終わったころ、つまり高校を卒業して就職か大学入学か専門学校入学かその他か、という時点ですでに上のような「カースト」ができているわけです。

これをわかりやすく2ちゃんねるユーザーで例えるならば、

①の層はそもそもほとんど2ちゃんねるに関心がなく、

②の層はまとめサイトで多少見る程度で、

③の層はまとめサイトや2ちゃんねるの掲示板に入り浸っている

くらいなものでしょう。

ほかにも、大学のなかでいえば、①がリア充とかウェイとかパリピ、②が一般生徒、③が非リアとか陰キャラとか言われるような人々である・・・といったたとえもできますが、むなしいのでやめておきます。

 

とにかく、この節で述べたいことは、「高校卒業あたりまでに愛着や承認をどの程度得られたかによって、2:6:2に分かれる。うまくやった2割は良いとして、残りの<6:2>はコミュニケーション能力に不全感を持つと思われる」ということに尽きます。

 

 

3.思春期後~成人初期での実存不安

私はこの時期のことを、「敗者復活戦のようなもの」だと思っています。

この時期の人々は、自分のコミュニケーション能力を「このままでいいかな」とするか、「もうちょっとなんとかならないかな」と考えるのか、のいずれかのスタンスをとります。

 

私は一応大学生なので、とりあえず大学をモデルにして考えます。

前述のとおり、入学時にもやはり「2:6:2の法則」がはたらきます。なかには「大学デビュー」に代表されるように、2から6へ、あるいは2から2へと移住しようと試みるひともいますが、だいたいは徒労に終わるか、入ることができてもなんとなく気疲れがします。高校まで「陰キャラ」だった人が急にふるまいを変えるということは、本人がそれまで慣れ親しんできた快適な空間(コンフォートゾーン)から外れるということですから、居心地の良さを取り戻すための「反発力」が作用します。

コミュ障の人が頑張ってリア充グループに入っても、たいていの人は結局脱落していきます。リア充とコミュ障の「人間関係における常識」が違いすぎてギャップが生じるので、それで認知的不協和を起こしてしまうということです。それまで初対面の人と打ち解けた経験が少ない人が急にナンパしようとしても失敗するのが当然だ、というわけです。

 

ただし、「2:6:2」の「6:2」に相当する人々がそのまま一生パッとしない人生を送り続けるかといえば、そんなことはありません。

高校卒業後、日本人はかなり「フリー」になります。

交友関係も多くの場合リセットされます。

自分で時間の使い方を決められるようになり、自分の行動に自分で責任を持つようになります。

 

いわゆるモラトリアムですが、このモラトリアム期間こそ、

これまでの人生で不十分だった「愛着」や「承認」を何かによって埋め合わせることができるチャンスなのです。

 

ひとつ言っておくと、大学(あるいは専門学校)というのは、おそらく「コミュ障がコミュ障にケリをつける最後のチャンス」だと思います。ケリをつけるとはつまり、「このまま他人との接触を避け続ける」のか、それとも「コミュ障であることを認めたうえで、それでもなお何かをしようとする」のか、という態度選択のことです。

前者の場合はもちろん、コミュ障はどんどん悪化していきます。

改善の可能性があるのは、後者です。

 

べつにリア充グループに無理に入ろうとせずともいいのです。

それよりもむしろ、コミュ障であることをいちどありのままに受容した上で、「自分はたしかにコミュ障だけど、それでも〇〇がやりたい。○〇をやるためには人間関係を形成することが必要だ。失敗してもかまわないから、とりあえずやってみよう」と考えるほうが得策のように思います。

その「〇〇」がなにかはわかりませんが、もっとも良いのは「自分が本当に好きなこと」「言われなくたってやること」でしょう。

 

自分自身のことで例を示すと、私は一日のなかの大半の時間を一人で過ごします。

授業もたいてい一人で受けますし、食堂でもほぼ一人です。

で、その一人の時間で何をやっているかといえば、読書か、ものを考えることか、文章を書くことです。

どれも私にとっては「やりたいこと」であり、「いくらでも続けられること」であり、「言われなくてもやること」です。もっと言えば、「将来これで稼いでやろう」という気があるものです。

そして、「作品を作る」からには、他の人との交流のなかで相互に作品を読みあったり、社会に対して作品や文章を発表する必要があります。そうしないと、社会から孤立してしまいます。自分の得意科目である「読書・文章を書く・ものを考える」によって社会に対してなんらかの貢献ができれば、それはそのまま「自分自身が存在する理由」になります。

 

また、この時期にコミュ障を何とかしようと思った人にとっては、本を読んで感激したり、信頼できる他者を発見したり、敬服する人物に出会えるかどうか・・・といった点も重要になってきます。そして実際に、大学や専門学校とはそういう出会いや関係を提供するだけの能力がある場所です。人間関係が一気に広がりますし、行動の自由度もかなり高まります。

 

私には、この時期に「コミュ障にきっちりケリをつける」ことができた人には共通点があるように思えます。

それは、「本を読みまくった」とか「自分の得意な分野で人に認められる結果を出した」とか「本当に信頼できる人に出会った」とかいった経験です。たとえば、作家の自伝や回想録を読んでみると、けっこう「小さいころから内気で、学校ではひどい扱いを受けていた」「両親が不仲だった」という人が多いのです。そういう経験がありながらも成功した人は、そういう「コンプレックスに対する代償行動」として「〇〇に打ち込んだ」ということなのでしょう。それも一つの「コミュ障にケリをつける」になります。

 

もちろん、ケリをつけることのできない人も存在します。

そういう場合は、続く4.や5.で見る通り、コミュ障への対処自体がかなり困難になることが予想されます。

 

4.成人以降の改善

はじめに断っておかねばならないのですが、私はまだ21歳の若造に過ぎないので、「コミュ障が成人して以降ほんとうに治るのか」については確たることが言えません。根拠もないのにそういったことを断言するのは無責任だと思うのです・・・が、「おそらくこうなるだろうな」ということは述べることができます。

 

一般的に「成人してからでは人間の性格は変わらない」といわれます。

それは、過去の経験の堆積が、習性となって固着しているためです。

成人してもコミュ障ということは、おそらく「最大20年分のコミュ障経験」があるわけですから、それをひっくり返すのはかなり難しいでしょう。

 

そのため、すでに成人して久しい人は、「劇的に変わる」ことを目指すよりも、「時間をかけて徐々にやわらげる」かあるいは「逆用して活かす」というアプローチを採った方が確実ではないでしょうか。人間の脳には可塑性がありますから、たとえ根本のコミュ障気質が変わらなくても、その気質を十分に理解した上で「では、コミュ障のままでも社会に対応するにはどういう方策があるだろうか」「コミュ障でもできる仕事、あるいはコミュ障だからこそできる仕事はないだろうか」と考えてみるのも一つの手です。

 

5.老年期

身も蓋もないことを言うようですが、老年期の人間は「それまでの生活パターンを合理化し固執するため、改善はほぼ不可能」だと思います。老いた人間は、自分の積み上げてきた過去を肯定することによって自尊心を保つ、という方策をとることが多いからです。

 

実際、自分が老人になったと想定して考えてみると、おそらくそれまでの人生でずっと「コミュ障」だった老人は、「自分は仕方なかったんだ」「世の中が悪いんだ、自分は悪くなかった」と考えるはずです。

「コミュ障を治せるかもしれなかったのに、治せなかった」という事実に目を向けることはかなり辛いでしょう。

 

ただし救いがないわけではなく、老人にもなると生きるエネルギーそのものもかなり衰えてきますから、そういう「コミュ障を治そうとしなかったこと」への後悔の念自体もかなり希薄なものになるかもしれません。

 

 

小休止(続きは次回) + おすすめの本たちの紹介

かなり長々と(8000字)書いたので、読むのに疲れた人も多いでしょう。私も書くのに疲れたので、ここで小休止します。

次回は「②自分自身がどのような認知の枠組みを持っているかを一歩引いて見る能力が不足していること」「③頭のスペックの問題」について書きます。さらに次々回は、「では、コミュ障を改善するためにはどのようなアプローチが有効だと考えられるのか」について考えます。

お楽しみに。

では、グッド・ラック!

 

 

★おまけ 「勉強法」「読書法」「頭を良くする方法」関連のおすすめ書籍★

以下におすすめの本を挙げておきます。

<苫米地英人関連>

・「立ち読みしなさい!~美しいほどシンプルな成功術

・「現代洗脳のカラクリ ~洗脳社会からの覚醒と新洗脳技術の応用

・「ディベートで超論理思考を手に入れる

・「「言葉」があなたの人生を決める

・「苫米地英人、宇宙を語る

・「洗脳原論

・「思考停止という病

・「すべてを可能にする数学脳のつくり方

・「「生」と「死」の取り扱い説明書

・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する

 

<勉強法・読書法関連>

・佐藤優「読書の技法

・藤井孝一「読書は「アウトプット」が99%

・吉永賢一「東大家庭教師が教える 頭が良くなる読書法

・吉永賢一「東大家庭教師が教える 頭が良くなる勉強法

・吉永賢一「東大家庭教師が教える 頭が良くなる記憶法

・DaiGo「自分を操る超集中力

・築山節「脳が冴える15の習慣 記憶・集中・思考力を高める

 

 

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