ひょっとすると十年以内に、「英語スキル」は一般人にとって不要になるのでは? その2

   

ひょっとすると十年以内に、「英語スキル」は一般人にとって不要になるのでは? その2

(前編→ひょっとすると十年以内に、「英語スキル」は一般人にとって不要になるのでは? その1

現在は「英語狂想曲」状態

「英語できない=恥ずかしい」という洗脳

「英語が全くできない」ことに対して、あなたはどういうイメージを持っているだろうか。

 

戦前の日本人であればもしかすると「鬼畜米英の敵性言語を学ぶなどけしからん!」と喝破するかもしれないが、

おそらく、現代に生きる日本人の多くは「英語ができない=かっこわるい、能力が低い」という印象を持つだろう。

 

しかし、「日本に生まれ育って、特殊な家庭事情や言語障害を持っているわけでもないのに、日本語が不手な人を軽蔑する」のならまだわからないわけではないが、日本に住んでいれば使う必要のない「英語」という言語が下手だからといってバカにされるのは、正直、筋が通っていないように思える。

道行く人に「きみカバディできる?」と尋ねて、「やったことないし、できない」という返事が返って来ても、その通行人をバカにはしないだろう。

これと似ている。

普段の生活に必要のないことなのに、なぜか「英語ができない=恥ずかしい」という図式が存在するのだ。

 

なぜそういう印象を持ってしまうかといえば、「周囲の人たちがそう言っているし、メディアでもそういう扱いをされているから」ではないだろうか。

要は、「英語洗脳」である。

試しに、私がこれまでの人生で遭遇した「英語洗脳」と呼べそうな事柄を並べてみよう。

「一般教養の授業で、中間試験代わりにTOEFL-iTPの受験が義務づけられている。iTPで530点以上の人は、優秀認定を受けることができ、英語の授業の単位が勝手に下りてくる」

「TOEIC満点者や留学経験者が、自身の英語能力を著者略歴欄に書いてアピールしている」

「欧米の大学に留学した人に対するあこがれのまなざしが存在する」

「大学生協の書店で、入ってすぐのところに『英語に関する本』が棚三つ分くらいデカデカと設置されている」

「ほとんどのイカした映画スターたちが英語を話している

「日刊スポーツの広告に『聞くだけで英語ができるようになる』と銘打った英会話教材が出ている」

「ノーベル賞やアカデミー賞を受賞した人、あるいはメジャーリーグや外国リーグに移籍した日本人選手たちが、ほとんどの場合英語で応答している」

「英語が得意な友達が『スゲー』と称賛の対象になったり、英語の偏差値が高い人が一目置かれたりするのを普段から見ている」

ざっと、このあたりだろう。

 

普段からこのような「英語はすごい! 英語ができる人はすごい!」というメディアを通した刷り込み・周囲の人や環境を通した刷り込みに浸っていれば、無意識のうちに「英語ができることはすばらしいことなのだ」と思ってしまうのではないか

(もちろん、現時点で英語能力が高い日本人をコケにする意図はないことを断っておく)

 

これらのケースの多くでは、誤前提暗示のテクニックが使われているようにも思える。

 

誤前提暗示とは、たとえば、

「仕事と私、どっちが大事なの!?」

という選択を迫ると、多くの男性は目の前に妻がいるものだから「そ、そりゃお前だけど…」と答えてしまう。

しかし、二者択一の選択を迫られることによって、「お前も仕事も両方大事だよ」というより包括的で抽象度の高い選択肢が見えにくくなってしまうのだ。

誤前提暗示とは視野が狭くなるように仕向ける技術だ、と言ってもいいだろう(あるいは、仕事もお前も両方ともどうでもいいという選択肢もある)。

 

つまり、現在の日本では「英語ができる人ってかっこいい? かっこわるい?」という二者択一が行われているように見えるのだ。「そりゃ、できないよりはできた方がいい」と思うに決まっている。

「日刊スポーツの広告に『聞くだけで英語ができるようになる』と銘打った英会話教材が出ている」というのはまさに典型例で、これだと「英語はできなくてもよい可能性もある」という選択肢が隠れてしまう。

 

このようにして「英語ができなければならない理由」を大量に刷り込まれ、

「英語ができなくてもいい理由」はまったくインプットされない…というのが現在の日本の状況だ。

 

では、あなたはどうだろうか。

「自分は〇〇のために英語を勉強している」というのを、近未来の社会的変化まで視野に入れて考えているだろうか。

 

「現時点で本当に英語を必要とする人」はどれくらいいるのか

ところで、勘違いしてもらいたくないのだが、私は根っからの英語不要論者ではない。

ただ単に、「現在の状況と、近未来に起こる可能性のある変化を考え合わせると、盲目的に英語ができるようになろうとする必要は必ずしもないよね」と言っているにすぎない。

 

では、どういう人に英語が必要なのだろうか。

 

まず、高度な翻訳技術を持った翻訳家・通訳者たちは、自動翻訳技術が進歩しても、一定数が一定期間は生き残るだろう。

自動翻訳のアルゴリズムを練り上げる上で彼らの思考法・解釈の方法が必要とされるだろうし、

「異なる言語同士の細かいニュアンスを丁寧に擦り合わせることのできる人」は自動翻訳技術が普及したのちも一定の需要があるからだ。

 

それでも、彼らの多くは失業すると思われる。しかし、一定の水準を超える技能を持つ人はしばらく生き残るだろう。

 

また、現時点でネイティブと対等に近いレベルで議論を戦わせることのできる人も、英語は引き続きやり続けた方が良いだろう。

海外の大学に留学した経験のある人や、普段から海外への出向が多い人などは、向こう5~10年は英語のアドバンテージを享受できる。

 

さらに、「これから5~10年、自動翻訳技術が浸透するまでの間に英語を使うことが予想される人」も、現時点では英語を必要とする。

現在高校生・大学生の人は間違いなく、入学試験や学会発表の際に英語のスキルを試されるはずだ。

あるいは、海外に出張することが予想されるビジネスパーソンもだ。

私は今のところ大学院に進学するつもりなので、この範疇に入る。

 

……ただし、現時点であっても、英語の文章をカメラ・スキャナで画像に起こせば、

あとは「英語の文章に変換する→日本語に翻訳する」という手続きで日本語化できる。

つまり、現在でさえ、リーディングの技能が必要かどうかはかなり怪しい。

(英語の文字は日本語と違って数十種類しかないため、カメラ・スキャナによる文書化・OCRが容易だという事情もある)

 

そうなるとあとはリスニングとスピーキングだが、これは自動翻訳技術の実現まではお預けするか、自前で通訳を雇うかするしかない。

少なくとも、昔の学生のように「英語の原文をわざわざ辞書片手に唸りながら読む」必要はないと思われる。英語の学習に一日二~三時間を費やすくらいなら、その時間を使って母語での知識習得に励む方が有意義ではないか。

 

前回と今回の記事に書いた事情を考えると、

以上のような「英語が本当に必要な人」以外は英語をやる必要がなくなるだろう。

 

特に、現時点で幼稚園児・小学生の場合、「学校での成績をキープする」以外に英語を頑張る目的はないのでは、と思う。

 

「英語を勉強する」という行為に潜む本質的な不可能性

そもそも、「母語ではない言語で学習し、母語ではない言語で実力が試される」ことがどれだけ不利なのかを知ってほしい。

 

最も大きな問題として、母語と外国語を両方操ろうとすれば、学習時間の配分が怪しくなる。

 

たとえば、現在の大学生の中には留学目的等で「一日10時間以上」英語漬けになっている人も多い。

英語の名著を読み、学校への行き帰りでは英語のCDを聞き、英語圏のドラマを英語字幕で鑑賞し、英語で行われる授業を履修登録する。

 

彼らのように、「英語で学問すれば、英語の勉強にもなるし、知識も入るし一石二鳥」だとして

英語で知識を仕入れることのメリットを強調する人もいる(過去には私もそういう記事を書いた)。

 

しかしもともと、英語が母語の人にとっては「英語を勉強する」必要そのものがない。ネイティブのエリートたちは、母語である英語を使って知識を入れることだけに集中できる。

だから、そもそもの話が、英語が母語ではない日本人にとっては「母語ではない言語で学問する」のは相当な時間的ハンデなのである。

 

さらに、その慣れない英語を使って、英語圏のエリートたちと対等以上に渡り合えるだろうか

ディベート・討論文化の根強い欧米社会で勝ち残ってきたエリートたちの鋭い議論に、英語非ネイティブの日本人が英語で対抗することはできるだろうか。

英語を母語とする人でさえ苦悶するレポート・読書課題の山を、英語が母語ではない日本人が処理できるだろうか。彼ら以上の速さで、英語による情報処理をすることはできるだろうか。

 

「英語と日本語の人格を使い分けているから大丈夫」という人であっても、「英語を習得するために費やした時間」が過去に存在していることには間違いがない。

1000時間?3000時間?10000時間? かなりの時間を費やしたはずだ。

ネイティブであれば、その時間をほかのことに回せる。

 

そこのロスはかなり大きいだろう。いくら「外国語を学習することは脳に良い」という主張をしようとも、そもそも、外国語ではなく母語を使って脳を活性化する方が効果が大きいのではないだろうか。

 

「英語圏生まれ英語圏育ちのネイティブ vs 英語を習得するために一定の時間を必要とした日本人バイリンガル」

という対立図式で考えてみるとよくわかる。

勝機があるとしたら、バイリンガルの地頭がネイティブを圧倒的に上回っている場合だけではないだろうか(私がよくこのブログで触れる苫米地氏はその典型なのだが)。

 

これが現状だ。

 

しかし、もしも自動翻訳技術がモノになれば、「ひたすら日本語で思考訓練を続けてきた人」にもチャンスが巡ってくる。

英語圏のエリート vs 日本語圏のエリート という対決が、「言語のハンデなしで」できるのだ。これでようやくおあいこになる

 

英語が世界の主要言語である現状では、間違いなく英語圏の人々が圧倒的に有利だ。

それは、「英語を勉強させる」というハンデを他言語圏出身の人々に課すことができるから。

自動翻訳技術が完成すれば、その「非対称な言語の壁」が崩壊する。

 

英語は贅沢品になるのかもしれない

では、自動翻訳技術が実現した暁には、英語はどういう扱いをされるようになるだろうか。

 

まず、現在のような英語偏重教育をする意味がなくなる。

学校や予備校・大学のカリキュラムから英語が消えるだろう。英語なしでもコミュニケーションがとれる以上、実利的な意味で英語を学ぶ必要はなくなる。

まことに気の毒だが、英語教師・ALT・英語教材を売っている人々の多くは別の職を探し歩くことになるだろう。

 

英語は、

「英語を学ぶことによって異文化理解をしたい人」(これも怪しいと思うが…)

「洋楽やハリウッド映画・英語ドラマといった英語のコンテンツをまるのまま楽しみたい人」

「純粋に英語という言語が好きで研究したい人」

たちが学ぶ「嗜好品」になるのではないだろうか。

 

実利的な意味を失った英語学習に惹かれる人は激減し、英語は、オーディオ機器コレクターや鉄道マニアといった趣味の領域と同化されるだろう。明治から続いてきた日本の英語翻訳者たちの系譜は、かつての電話交換手やタイピストといった職業のように、ふつりと途切れることになるだろう。

 

しかし、それは新たな時代の幕開けでもある。

 

言語障壁のない世界では、ほとんどの言語圏の人同士(アフリカあたりはしばらく遅れるかもしれない)が活発に議論を戦わせ、創造的な共同作業に励むようになるだろう。

 

これまで「これだから〇〇人は~」とレッテルを貼られていた人たちが、意外と自分たちと変わらない感情や思考回路を持っていることに驚くかもしれない。意思疎通が不自由であったがゆえの文化的もつれは次第に解消し、「なんだ、彼らだって自分たちと同じ、赤い血の流れる人間じゃないか」と実感されることだろう。

 

言語障壁がなくなることによって、英語圏の人間がアドバンテージを保持する状態が消失し、

「真にフェアな競争」が行われるようになるだろう。

 

インド出身だろうが、スウェーデン出身だろうが、イタリア出身だろうが、日本の片田舎出身だろうが、

純粋に「どれだけ思考力があるか」「どれだけ創造性があるか」によって評価される時代になるだろう。

 

もちろん、自動翻訳技術においても先行者の優位はある程度存在するし、また新たな差別が生まれることも考えられる。

それでも、次第に次第に、各文化圏の間に横たわる機会の不平等の総量は減少する方向に向かうだろう。

 

能力があれば世界でも通用する。なければ、通用しない。

厳然たる弱肉強食の世界になるのかもしれないし、弱者にもある程度の配慮がなされる社会になるかもしれない。

 

総じて、「自動翻訳技術」は、人類にプラスの影響をもたらすだろうと私は考えている。

 

 

もしも前回・今回の記事で私が提示したプチ未来予想に異議のある人は、

「自動翻訳技術が実現しないであろう理由」を一度考えてから反論してほしい。

きちんとした手続きのなされた批判であれば、こちらも真摯に議論に応じたいと思う。

 

「英語は今後いらなくなるかどうか」を考えるために参考になる資料一覧

日本人の9割に英語はいらない/成毛眞

英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる/施 光恒

英語の害毒/永井 忠孝

英語を子どもに教えるな/市川 力

 

あと10年で英語いらなくなるんじゃね? グーグル翻訳の進化が凄すぎる件

創造力が低い人ほど、英語を勉強する。楽天の「重要なことなので日本語で失礼します」は最高のギャグ。

Google翻訳があるから英語の勉強いらないとか言うやつはバカ過ぎ

 

 

 - 有益な情報, 栗栖鳥太郎が学んだ・考えたこと ,