「講義形式の授業」がいかに日本の若者をバカにしているかを考える その1

   

こんにちは、栗栖鳥太郎(@Kuritoritarou)です。

今回は、日本の教育についてひとつ言いたいことがあります。

それは、小学校・中学校・高校・大学・予備校・専門学校など、日本中の学校という学校で当たり前のように行われている

「講義形式」=先生が教壇に立って話して、みんながそれを聞く タイプの授業

は、時間を無駄にしているということです。

「講義形式の授業」がいかに日本の若者をバカにしているかを考える その1

「講義形式」がいかに使えない方式なのかを説明する

「ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン」は建前に過ぎない

「講義形式の授業」って、どんなものかイメージが付きますか?

↑ざっくりいえば、こんな感じの授業方式です。

先生がみんなの前に立って、板書しながら、生徒たちと一緒に教科書を読んでいく。

小中高・大学・専門学校や予備校・塾、どこでもみられる授業風景です。

 

……しかし、私がこのブログで度々言っているように、

「みんなが当たり前だと思っていること」は、しばしば間違っています。

 

なにかを指摘されると「そんなの当たり前だろう!」「常識だ!」と言って怒り出す人がいるようですが、そういう人はもし中世にいたら魔女狩りをやっていただろうし、WW2のドイツであれば民族虐殺に加わっていたでしょう。「常識だから」「当たり前だから」というのは単なる思考停止です。

 

いま日本の教育界で「当たり前」になっている「講義形式」も、疑ってかかる必要があります。

 

じつは、この「講義形式」の授業は、「知識習得」という点で考えると非常に効率が悪いものだといわざるを得ません。

まず、「みんながまったく同じ授業を受ける」というのがおかしい。

ちょっと考えてみてください。

 

たとえば、ふつうの公立小学校の六年生の算数のクラスには、

「公文か進研ゼミをやっていて、すでに高校レベルの内容までわかっている子ども」もいるかもしれませんし、

「小学校六年生として平均レベルの学力の子ども」もいるかもしれませんし、

「掛け算の九九がわからないレベルの子ども」もいるかもしれません。

私自身の過去の記憶からして、公立小学校の児童にはこのくらいのバラつきがあります。

 

……その子たちに、「まったく同じレベルの授業をいっせいに受けさせる」って、明らかにおかしくないですか? 普通に考えて、生徒の習熟度がまったくバラバラなら、同じ授業を受ける意味なんてないはずです。せめて習熟度別にクラス分けしてやればいいのでは、という疑問が浮かんできます。

 

さらにいえば、同じ「数学の偏差値が60」の子どもであっても、

「確率が得意で、図形が苦手」な子どももいれば、

逆に「確率が苦手で、図形が得意」という子どももいるでしょう。

一人一人の得意分野・苦手分野が異なっているというのに、なぜ一斉授業が必要なのでしょうか?

 

かつての流行歌にあったように「もともと特別なオンリーワン」なら、一斉授業なんて逆効果のはずです。

デキる子どもに合わせれば、デキない子どもがついてこれない。

デキない子どもに合わせれば、デキる子が退屈する。

デキる子どもが内職していると、先生は叱ったり、嫌味を言ったりする。

 

不思議ですね。

 

普段は「個性を伸ばす教育を!」とか「人間はひとりひとり違うんだよ」とか言っているくせに、

授業になると突然「みんないっしょじゃないとダメ」になるのです。矛盾しています。

 

学校は「従順な奴隷を大量生産する洗脳装置」である

そもそも、なぜこんな矛盾が生じるのか?

それは、

学校とは、『目上とされる人たち』の言うことを素直に聞く人間を大量生産するための洗脳装置である

学校とは、権威に従わない人間を屈服させ、従属させ、使い勝手のいい奴隷に仕立て上げるための密室である

からです。

 

そもそも現在の学校制度のルーツは、従順に働く工場労働者を育て上げるために19世紀のイギリスで考案されたもの。ベル・ランカスター方式と呼ばれるもので、「優秀な年長者が、格下の子どもたちを教える」というものです。

効率よく「オールB」の生徒を育て上げつつ、時間を守り、上司(=先生)の言ったことを忠実に実行する人材を育成するという明確な目的を持って、一斉授業方式は始められたのです。

これは現在の日本にも引き継がれています。

チャイムが鳴ったら授業開始。先生が来たら話を聞く。先生へのあいさつをきちっとする。

いずれも、工場労働者に必要とされるものです。

 

ですから、現在の学校も12年間かけて「従順な労働者」を育てるシステムになっています。

どんなに利発な生徒であっても、6・3・3の12年間かければ、たいていは「染まり」ます。

周りの空気を読み、上下関係に敏感で、目上の人に反抗せず権威を批判しない従順な下僕の出来上がりです。

 

もちろん、現場でやっている先生方の意識としては、「社会で通用する人間を育てるため」「子どもたちが道を踏み外さないように」「将来の日本のためになる人材を育てているのだ」というところでしょう。多くの先生は教育に熱心ですし、日々たいへんな努力を積み重ねています。

しかし、学校という体制のなかでやっていることをよくよく見てみると、

そこで行われているのは明らかに、単なる「洗脳」です。

 

授業の内容に興味が持てない生徒が、自分の好きなことをやっていると、先生はその生徒を叱り付けます。理由はなんでもいいのですが、たとえば「学業が本分なんだからちゃんと授業を聞きなさい」とか「みんな授業をまじめに聞いてるのに、お前だけ自分勝手なことをやっている」とか何とか。

みんなが同じ授業を受けているときに、一人だけ塾の教材を使って先の内容をやっていると、なぜか怒られるのです。「学校は学校、塾は塾。学校にいるときはちゃんと授業を聞きなさい」とか言って。生徒が進んだ内容をやっているのだから、本来喜ぶべきことなのではないかと思いますが。

 

実に不思議ですね。

 

「不良」「問題児」というレッテルが貼られる本当の理由

本人が好きなことをやるのは、他人に明らかな不利益を与えない限り本人の自由であって、止められる筋合いはありません。近代以降の市民社会の大原則です。自由の代わりに自己責任を負うのですから。

しかも、「学校でやると先生がうるさいから」といって学校を抜け出して自分の好きなことをやっていると、たちまち「不良」「問題児」というレッテルを貼られます。

将来その子はその「好きなこと」によって生計を立てるようになるかもしれないし、

「好きなこと」をやるために必要な勉強は必死になってやるかもしれないのに、です。

 

その子の人生のためを本当に思うのであれば、本人の意志と責任でやっているのですから、放っておけばいい話ではありませんか? それをわざわざ「あの子は不良だ」「問題児だ」とみなす方がおかしいのではありませんか?

 

……本当は、

「上司の言うことを忠実に実行する奴隷が欲しい」のであり、

「権威に従わない人間が増えると都合が悪い」のです。

 

生徒のことを思って「授業をきちんと聞け!」「目上の人の話はしっかり聞くものだ!」と言っているように見えますが、実のところは「自分たちの権威を脅かすような存在が出てくるのを恐れている」だけなのです。

日本の教育界で幅を利かせている「人間力」「上下関係」「礼儀正しさ」みたいな言葉は、どれも「上に立っている人々」がその地位を失いたくないがために使われている、というわけです。

 

授業の時間をすべて自学自習にすると……?

話がだいぶ逸れました。元に戻りましょう。

現代日本の教育では、ひとりひとりの能力や適性を考慮することなく、「真面目に授業を受けること」を目的にしてしまっています。どれほど秀でている生徒であっても、多くの学校では他の生徒と歩調を合わせなければなりません。日本には飛び級制度がないという事実がこれを物語っています。

 

「真面目に授業を受けること」がバカらしいのは、知識習得の効率からいっても当然です。

……

そもそもの話が、ある分野の知識を身に付けようと思うのであれば、先生の話を聞いてノートにとる必要はありません。

授業を受けている暇があるのなら、その時間を使って自分で本を読み、自分で考え、自分で調べ、自分で理解する方がよほど早いはずです。いまは書店にいけばわかりやすい参考書は山ほど売っています。

 

どれだけ時間を無駄にしているのか。

1日6時間授業を受けるとして、一年間で250日近く。つまり一年間で6×250=1500時間。

一年間で1500時間あれば、平均的な読書速度の生徒なら、五時間で一冊読み終えるとしと、一年間で300冊は読める計算です。

それなのに実際は、授業でのんびりと進む結果、ペラペラの教科書を一年間で20冊くらいしかこなせていないのです。

 

さて、「自分の意思で選んだ本を300冊読む」のと、「勝手に配布された教科書を20冊読む」のとでは、一体どれだけの差がつくでしょうか? 自律的主体的に学習する子供と、他律的受動的に学習させられる子供では、どちらが社会にとって有益な存在になるのでしょうか? どちらが幸せで、どちらが不幸でしょうか? どちらの方がより思考が柔軟で知識が多く好奇心旺盛でしょうか?

 

もしかすると、「学校が教え込んでやらなければ、子供は社会に出るための最低限の知識も常識も身に付かないだろう!」と思われる方もいるかもしれません。

しかし、

①子供はそんなにバカではない。必要と感じたことは自動的に習得する

②社会の変化が激しいのに、どの知識が有用かを判断するのは無理

③そもそも現行の学校教育ですら、常識のないと言われる人が大量生産されている。学校に行けば常識が身に付くって怪しいような

④協調性とかコミュニケーション能力は、部活とか行事で養えばいいじゃん

ということです。

 

6/3/3の12年間で、合計1500×12=18000時間あります。よく「なにかで秀でるためには一万時間の練習が必要だ」と言われますが、それが二回もできてしまいます。一芸に秀でる、を2つ分組み合わせるわけです。一芸だけに秀でている人はそこそこいますが、一芸を二つ組み合わせれば稀少性がハネ上がります。理論上無限の組み合わせになるのですから。

そう、講義形式の授業を全廃すれば、リンダ・グラットンが「ワーク・シフト」のなかで指摘しているような、多彩な分野を習得したスペシャリストを育てることができるのです。

 

つまり、講義形式を受け続けて育った「消極的で、自分の意見が言えない、使えない若者」ではなく、「自分の興味に基づいて能動的に学習を積み重ねてきた、自己主張のできる若者」を社会に送り出すことができます。

 

まとめ

以上見てきた通り、授業を受けるのは時間の無駄です。

今すぐやめましょう。講義形式の授業。

効率が悪いし、生徒にとって不幸です。

 

もう一つ。

説教の言葉に窮した学校の先生が言い放つ伝家の宝刀である

「そんなんじゃ社会で通用しないぞ!」

「反抗的なやつだ、あいつは社会に出てから苦労するぞ」

というフレーズは、実は

「学校て良い子のように振る舞えば振る舞うほど社会で通用しない人材に育つ」という動かしがたい現実の前に、すでに歯こぼれしてしまっている――ということを押さえておきましょう。

 

よく言われるように、

「学校の先生はそもそも社会経験に乏しい」のであり、

「真面目な優等生ほど案外堕落する現象」とか、逆に

「学生時代はヤンチャしていた子のほうが社会的に高い地位につく現象」

も、以上のべた理由が原因となって生じているのかもしれません。

 

この「教育と洗脳」というテーマは面白そうなので、今後も引き続き書いていきたいと思います。

私の癖で、けっこう「その1」だけ書いて放置するということが最近あるので、できるだけ「その2、3」も迅速に出していくつもりです。

 

以上、栗栖鳥太郎(@Kuritoritarou)がお送りしました。

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