「競争とご褒美をモチベーションにして、やりたがらないものをやらせる」ことの弊害

   

こんにちは、栗栖鳥太郎です。

今回は、「やりたくないことをやらせる」ためのもっとも有効な手段である

①やらないやつに罰を下す ②競争させて視野を狭くさせる ③ご褒美を提示して視野を狭くさせる

の三本柱のうち、②と③、つまり「競争とご褒美」について書きます。

この二つは、読者の方もイメージしやすいでしょうし、あるいはご自身で体験された方も多いと思います。「競争とご褒美」をモチベーションにすることの弱点とはいったい何なのでしょうか。

「競争とご褒美をモチベーションにして、やりたがらないものをやらせる」ことの弊害

「真面目な優等生が燃え尽きるのはなぜか」に対する私なりの答え

やりたいことをやらせたいなら「ご褒美」と「競争原理」で釣り上げればいいじゃない、の精神

人間の性質として、以下のようなものがあります。

・自分から望んでやりたいと思ったことには集中できる。

・他人から強制されてやらされたことには身が入らない。

これはみなさんも体験・実感されていることでしょうし、理屈で考えてもそうです。

 

今の日本の学校で「私は自分のやりたいことだけをやります!」と主張したらどんな目に遭うか想像してみてください。ほぼ間違いなく「不良」扱いされ、問題児とみなされるでしょう。

つまり学校というシステムのなかでは、「生徒がやりたいことを自由にやる」のは御法度なのです。

 

でも、一方で先生や親の立場からすれば「なんとかして勉強させたい」のです。

自発的に勉強することが理想とわかっていても、それを待つだけのゆとりはないから、

なんとかして子どもたちを勉強させられるように仕向けることはできないか?

進学実績のためにも、「その子の将来のために」も、また学校という場所の秩序維持のためにも。

 

そこで便利なツールとして使われるのが、今回の記事のメインテーマである「競争とご褒美」です。

 

現代日本の隠れた洗脳:「ご褒美と競争原理」はいたるところに潜んでいる

「競争原理とご褒美」という二つのツールを使って、なんとか子どもの勉強を「want to」に近づけたい。

自発的なwant toではないかもしれないけれども、とりあえず形だけでも勉強させたい。

 

「競争とご褒美」は、そんなときに極めて頼れる道具だといえます。

 

具体的に説明すると、

まず、「競争」とは、「同世代の他の子どもたちとの競争すべて」を指します。

・全国模試での順位や偏差値

・部活動の公式戦での勝敗

・定期試験での点数

・学校の評定

偏差値、ゲームの得点、試験の成績、学校の評定といった数字を用いれば、子どもたちの間に一応の「序列」を付けることができます。

「あなたの得点は○○点です。これは同世代の子どもたちのなかではこれくらいの順位で、偏差値としてはこうなります。もっとがんばりましょう」

「はい、あなたは成績評価は平均が2.8です。学校の平均評価は3.3なので、中の下ってところですね」

「あなたのチームはあそこのチームに負けました。順位は県大会のベスト16です」

…という感じで。

 

つまり、

単一の物差しを設定して、上下関係を付ける

下にいる人間は上を目指し、上にいる人間はもっと上を目指す

という前提が全国的に共有されているわけです。

 

競争の勝者にはご褒美を、敗者には屈辱を

この「競争原理で生じた上下関係」に、かならずご褒美がついてきます。

・勉強の偏差値が高ければ高いほど、社会的に有利な高学歴大学に入学しやすくなる

・スポーツで勝てば勝つほど、名声が高まる

・学校の成績がよいほど、進学に有利になる

・全国模試で上位にのれば、上位者リストに入った優越感を得られる

・学校生活で上の階層にいるほど、青春を満喫できる

ご覧のとおり、「競争に勝った人」にはかならずなんらかのご褒美がついてきます。

東大に入って国家公務員試験に受かって出世すれば、社会的な地位とお金が手に入ります。これもご褒美の一種です。

ご褒美がなければモチベーションは下がりやすくなるので、競争原理にご褒美は必須です。

 

いっぽう、競争で敗れた人はどうなるかといえば、彼らに与えられるのは「敗北感」「劣等感」「屈辱」です。

競争に負けるということは、「きみはあの人よりも下だよ」「あなたは彼よりも劣っています」という宣告を受けるのに等しい。

学歴コンプレックスをこじらせた人の心理を考えてみるとわかりやすいでしょう。

 

こうやって、

「競争原理+ご褒美」のシステムを採用することによって、

本来want toでない活動に対しても、

「勝てばご褒美がもらえるから」「負けると悔しいから」

という理由で打ち込むことができるようになるのです。

「have toをwant toと勘違いさせる」という意味では、実に精巧なシステムといえます。

 

しかし当然、このやり方には落とし穴が潜んでいます。

次項以降で解説していきます。

 

競争原理の性質:勝ち残ってご褒美をもらえるのはごく一部。「負け組」が死屍累々

当然のことながら、競争原理には勝ち組と負け組が生まれます。

「最終的に競争に勝てるのはただ一人だけ・一チームだけ」という現実があるのです。

大勢の挑戦者のうち、「よくやった」と言われるラインにすら到達しないで終わる人が大半。

 

つまり、ほんとうにごく一部の「勝ち組」が満足感と栄誉をほしいままにする一方、

大勢の「負け組」たちはそれをうらやむことになります。

 

こうなると、「下」にいる人々は二通りの反応を示します。

①あきらめる、そのままでいいやと放り出す

②もっと競争力をつけるためにめちゃくちゃがんばる

「勝ちか負けか」という二元論的な思考法の終着駅は、この二つです。

 

①については、まさに「燃え尽き」そのものです。

たとえば、

「がんばっていい大学に入った。地元では秀才だった。

でも、周りにはたくさん化け物がいた。とたんに凡才になった。

こいつらには敵わないと悟り、なにもする気がなくなった……」

という燃え尽き。

「勝ちか負けか」という一元的な思考法だとこういうときに困るのです。

 

「学力では負けてるかもしれないけど、俺は趣味のギターたぶんあいつらより詳しいからいいや」

「俺よりギターに詳しい奴って世の中にたくさんいるけど、俺みたいにギターと松本山雅とマンホールの蓋と仏教に同時に興味のあるような組み合わせの人ってたぶんいないから別にいいや」

と考えればいいのに、「学力が高いか低いか=勝ちか負けか が一大事だ」という図式を骨の髄まで刷り込まれているから、燃え尽きるのです。

 

②については、「勝利至上主義」に走りすぎるあまり色々な不正や強制を生む可能性があります。

これは、目先の「勝ちか負けか」にとらわれすぎて視野が狭くなるということ。

高校野球の大問題である「チーム事情による連投・酷使」は典型例です。

「視野が狭くなる」というのは、「自ら死を選ぶ」という選択肢しか見えなくなる人や、

「こいつに櫃を知られてしまった。命を奪って黙らせるしかない」という選択をしてしまう人と同じ過ちです。

 

ざっくりまとめると、競争原理にはかならず、「いびつさ」が出てくるのです。

競争原理に染まり切った人の行動2パターン

①あきらめる、そのままでいいやと放り出す → 燃え尽きる

②もっと競争力をつけるためにめちゃくちゃがんばる → 視野が狭くなり、破滅的な行動をする可能性?

 

競争原理の性質:他人との比較グセがついて、相対的に不幸になる

競争原理の性質その2。

競争である以上、「白黒」がかならずつくことになります。

 

「わたしの偏差値は55」だとすると、その55という数字は同時に、

「あの子は偏差値43で、わたしよりも低い」「あの人は偏差値70で、わたしよりも高い」

といった比較を生み出すわけです。

 

この「比較」には、ワナがあります。

それは、「比較」がそのまま「人間としての上下関係」「人間として優れている・劣っている」という根拠のない判断につながることです。

たとえば、年収なら

・自分は年収300万円で、あいつは年収600万円。自分はあいつよりも下だ

・自分は年収1000万円で、あいつは年収150万円。あいつは負け組で、自分は勝ち組だ

……という風に。

 

しかし、そもそも「勝ちか負けか」という二分法自体が未熟な発想だと私は思います。

勝ち負けにこだわると、「勝ちでも負けでもべつにどっちでもいい」という一段高い視点がとれなくなるからです。

 

先ほども書いたように、競争原理で本当に勝てるのはごく一握りの人だけです。

全国模試でいえば、「全国一位」以外の人間はみな、自分よりも上がいることになります。

10万人が受ける模試があったとして、「自分より上には誰もいない」状態になれるのはたった一人。

まさに椅子取りゲームです。

 

こんな状況の中では、「ほかの人よりも上にいることが幸せの条件である」という信念を持っている人はどうなるでしょうか?

どれだけ上にのぼり詰めても、一位であり続けない限りは、自分よりもすごい人がいる。

他人との比較をついついしてしまう人にとって、これ以上苦しい状況というのはないでしょう。

 

まとめると、

「競争原理のなかでは、他人との比較グセがつきやすい」

「しかも、他人との比較をしている限り、その人の主観的な幸福度は、相対的に下がりやすい」

のです。競争原理のいびつさはここにも表れています。

 

まとめ:競争原理そのものは悪ではない。しかし浸かりすぎると悪影響が出る

今回の内容をまとめると、

子どもに対してモチベーションを与えるためには、「競争原理とご褒美」が効果的に思える。

実際、一部の「能力の高い人」はおいしい思いができる。

 

一方、能力の低い人は

①あきらめる、そのままでいいや、どうせ自分は…と放り出す

②もっと競争力をつけるためにめちゃくちゃがんばる

の二通りのやり方で適応しようとする。ただし①も②も「勝ち負け」に縛られて視野が狭くなることに変わりはない。

 

ついでにいえば、

「競争原理のなかでは、他人との比較グセがつきやすい」

「しかも、他人との比較をしている限り、その人の主観的な幸福度は、相対的に下がりやすい」

ともいえる。

 

競争原理は、数あるやり方の中ではまあまあ上等な方だとは思います。

私は別に、「競争原理=すべて悪」と言っているわけではありません。

競争原理がはたらかないと社会の発展速度も遅くなります。

 

ただし、競争原理に染まり切ってしまえば、

「他人と自分との比較がやめられない」「勝利というモチベーションがないと動けない」

という結果を招きかねません。どちらも不合理です。

 

「他人と自分とを比較する」ことに生産性はありません。むなしくなるだけです。

「勝利というモチベーションがないと動けない」のも不利です。

「やりたいからやる、その結果勝つ」がいいのであって、「勝つためにやる」のはhave toになり生産性が下がります。

 

「競争」も「ご褒美」も、あなたではない第三者によって設定されたものです。

人生の主導権を第三者に渡すような真似はしないようにしましょう。

 

以上、栗栖鳥太郎がお送りしました。

 - 教育, 脱洗脳