「自分を客観的に見る」なんて幻想。キョドる原因・不幸の種は「自己の客観視」にある!

   

こんにちは、栗栖鳥太郎です。

よく「自分を客観視する」なんて言いますが、私はそれに反対です。

自分を客観視しようとすると、さまざまなデメリットがある。

ついでにいえば、自分を客観視するというのは原理的に無理。

今回は、「自己の客観視」について書きます。

 「自分を客観的に見る」なんて幻想。キョドる原因・不幸の種は「自己の客観視」にある!

 人間は絶対に自己の主観から離れることができない

「自分を客観的に見ようとする」と、悪いことしかない

世間一般で言われる「自分を客観視する」というのは、だいたい

・過去のデータ・現在の状況をもとに自分を分析する

・自分が周りの環境とどういう関係にあるのかを把握する

という意味合いで使われることが多いようです。

 

字義通りに解釈すれば、「客観視」とは

「自分ではないほかの人の目線」=「客観」という視点に立って視る、ということになります。

つまり、「自分の目線からいったん離れて、ほかの人の視点に立ってものを見る」のが客観です。

客観の対義語はもちろん、「主観」です。

 

しかし、「自分の人生は結局自分の主観でしかない」(後述)ということをわかっていない人が、

「客観的に自分を見ようとする」と、以下のようなドツボにはまることになります。

 

①自分の行動を客観的に見ようとする → ほかの人が自分の行動や姿形をどう見ているかを異様に気にするようになる → キョドりの原因になる

②自分の人生やステータスを客観的に見ようとする → 客観的に見るためにほかの人と比較する → 気持が不安定になる原因となる

③自分を客観的に分析しようとする → 判断材料は「自分の過去の実績や経験・限界」 → 夢や目標をあきらめる原因になる

 

①は、まさに日本人に多いタイプ。

自分を客観視しようとすればするほど、「他人の目線から見た自分」を意識することになりますから、

「他人の視線が怖い」「みんなの前で失敗したら恥ずかしい」「ほかの人にどう思われるかが怖い」

という恐怖・恥の感情に襲われることになります。

 

②は、インターネットをやっているとどんどん悪化していきます。

自分の人生を客観視すればするほど、「自分の人生やステータスは、ほかの人と比べてどうなのか」にこだわるようになるからです。

ネットというのは「自分のほしい情報だけが集まる」性質を持っていますから、

そういう人はどんどん「ほかの人との比較情報」ばかりを手元に集めて、学歴論争や育ち論争にはまり込んでいきます。

 

③は、典型的なドリームキラーの行動パターンです。

たとえば、今年40歳になった会社勤めの冴えないおっさんが「世界一の電機メーカーを作る」というゴールを立てたとします。

これを客観的に見れば、「やめとけやめとけ、今の仕事をつづけたほうが安泰だよ」となるでしょう。

 

そのおっさんが「客観視するクセ」のある人なら、きっと「今からじゃもう遅いよ…だって40歳だよ」となるでしょう。

客観的に見れば、「40歳になってから、電機メーカーを起こすための事業を始める」のはあまりにも遅すぎるように思えてしまいます。

しかし、この思考法には決定的な誤りがあります。

 

それは、もしもそのおっさんが本当に世界一の電機メーカーの社長になったとしたら、

「40歳になってから、電機メーカーを起こすための事業を始めた」という事実はたちまち、

「あのとき思い切って始めてよかった」にすり替わるからです。

 

「自分の今の状態」の評価を「現在の視点」から下すことはできません。

現在の自分の状態がどうであるかを客観的に分析するなんてどだい無理です。

現在の自分の状態は、未来になってみないと解釈できないのですから。

 

そもそも「客観的に見る」って幻想じゃね? という話

そもそも、「自分という一個の人間が、自分ではない人間からの目線で世界を見ることは不可能」なのです。

自分が使える視点というのは、自分の視点だけ。

友人の視点を借りることはできません。

 

生まれつき目が見えない人に「空の青さ」を説明するのが無理なのと似ています。

生まれつき目が見える人が、生まれつき目が見えない人の視点に立つことはできないのです。逆も然り。

 

究極的に言えば、「鏡やカメラ」に写っている自分の姿(のように思えるもの)すらも、まやかしに過ぎません。

「自分の目線」から離れることができない以上、人間は自分の顔を見ることができないようになっているのです。

 

人間は、自分の目線から離れることはできない。

客観的なものの極致に思える科学ですらも、それを解釈する個人個人の主観性から離れることはできません。

極端な話、同じ「1+1=2」の解釈でも、「科学なんて信じないぞ」という人と、「科学を完全に正しいと思っている」人では異なる可能性があります。

 

ですから、結局は「客観的な視点」そのものが存在しません。

できるのはせいぜい、後述する「ほかの人も自分と同じように主観のなかで生きているのだろうな」と想定することくらいです。

「客観的に見る」というのは幻想にすぎないのです。

 

自分の人生は主観オンリー。「ほかの人も自分のように主観を持っていると想定する」ことができれば十分

「客観的に見る」というのが幻想であるとすると、こういう問題が出てきます。

①「客観的に見る」ことができないなら、一体私たちは何を頼りにすればいいのか?

②主観しか存在しないというのなら、他人の目線を気にすることなく、人生は自分の好き放題にやっていいというのか?

 

以上述べてきたように、私はこう考えています。

1.「客観的に見る」なんてそもそも原理的に不可能

2.「客観的に見ようとする」のは、悪い結果しか生まない

3.できるのは、「自分の主観というレンズを通して見ること」だけである

4.「自分が主観のなかで生きているのと同じように、ほかの人々も主観の中で生きているんだろうなと想定する」ことはできる

 

①「客観的に見る」ことができないなら、一体私たちは何を頼りにすればいいのか? に対する私の答えは、↑の3.と4.です。

客観的に見るというのが物理的・原理的に不可能である以上、使えるのは「自分の主観をいかに上手に活用するか」だけ。

客観的に見ようとする代わりに、「自分の主観をもとにして(≠客観的)、他者の気持ちを推測する」能力が必要です。

もちろん、「その人の主観がぶっ壊れている場合」は他者の気持ちを推測することができません。

 

②「主観しか存在しないというのなら、他人の目線を気にすることなく、人生は自分の好き放題にやっていいというのか?」 についても、3.4.が私の答えとなります。

「他者にも自分と同じように主観があるのだろうな」(発達心理学でいう心の理論)という前提をわかっている人であれば、

「自分がやられていやなことは人にするな理論」にしたがって行動することになります。

この場合も、「主観そのものが破たんしている人の場合」はアウト。

主観が破たんしている人は、他者の気持ちを推測する能力がないからです。

刑法でも責任能力なしとみなされます。

 

「客観的に見る」ことが不可能であるなら、「主観的」をどううまく使うかがポイントになるわけです。

「他人の主観を体験するのは原理的に不可能ではあるけれど、仮想マシンのように想定することはできる」のを利用すればいい、ということです。

 

まとめ:「客観的に見る」なんて幻想でしかない

今回の内容をまとめると、

1.「客観的に見る」なんてそもそも原理的に不可能

2.「客観的に見ようとする」のは、悪い結果しか生まない

3.できるのは、「自分の主観というレンズを通して見ること」だけである

4.「自分が主観のなかで生きているのと同じように、ほかの人々も主観の中で生きているんだろうなと想定する」ことはできる

5.主観をうまく使って生きることが大切

ということになります。

 

「自分を客観的に見る」なんてする必要はないのです。

あくまでも自分の人生は自分の主観のもとから離れることはできない。

 

この「主観メイン」の考え方を身につけると、キョドらなくなるし、他人の目を気にすることもなくなるし、

自分の人生の主導権を自分の手に取り戻すことができるようになります。

しかも、結果的には他人を思いやる力が増すことになります。

 

この記事で考えてきたように、

私はあらゆる点において「主観>>>客観」だと思っています。

人生が主観的なものであるということをわかっているほうが、よほど楽しくうまく生きることができる。

「人生は主観的なもの以外ではありえない」、この思考法を一度試してみてください。

 

以上、栗栖鳥太郎がお送りしました。

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