【半分ひとりごと】「この世に存在する全ての学問・知識・情報・存在を究め尽くしたい」というとても個人的な願望

   

【半分ひとりごと】「この世に存在する全ての学問・知識・情報・存在を究め尽くしたい」というとても個人的な願望

「自分が知らないこと・理解できないことがこの世に存在すること」が許せない

自分の頭の中の整理

今回の記事のテーマは「全ての学問や知識その他を極めたい」というものだ。

なぜ唐突にこんなインテリ感のある記事を書き始めたのかというと、単に「自分のやりたいことがよくわからなくなったので整理しておきたい」という青年らしい悩みの解決を図りたいのと、「これって文章化してネットに公開したら、自分も自分も! という人がけっこう現れるんではないか?」という共感狙いの目算が大きい。

要するに、この記事は半分独り言、半分宣言という形になる。半分は独り言だからいつものような丁寧口調ではないし、半分は宣言だからただのチラ裏の落書にするつもりもない。

 

さて、「自分探し」が大学生特有の娯楽となって久しいが、ご多分に漏れず、私自身(筆者)も絶賛自分探し中である。

自分を探すも何も、「自分らしきもの」はこうして今、札幌市のどこかでキーボードを叩いているじゃないか?

いや違う、そうじゃない。

肉体的な意味での「私」はここにいる感覚が確かにあるし、ビデオカメラや他人の目にもきちんと写り込んでいるようだが、なにも今は物理レベルの話をしたいわけではない。

どちらかといえば、心とか精神とか情報的存在とか抽象空間といった、物理空間を離れたところで「自分探し」をしている。では一体どのように自分を捜索しているかというと、「自分はいったい、何をやりたいのか?」を探っている。実に古典的で典型的で月並みで単純な悩みだとつくづく感じるのだが、これが思いのほか難題なのである。「お前はいったい、死ぬまでに何をやりたいのだ?」という声は、自分の頭の中に霧のように湧き出して視界を曇らせては、掴みどころを悟らせないまま、いつのまにか薄くなって消えている。ここしばらくは、その繰り返しだった。

 

しかし最近、ちょっとした「獲ったどー」があった。ようやく尻尾らしきものを掴んだのである。

それが表題の「この世に存在する全ての学問・知識・情報・存在を究め尽くしたい」である。自分はこれをやりたいんじゃないのか、とピンと来るものがあった。

 

「は?何言ってだ」と思われるかもしれないので、一応説明を加えておく。

・すべての学問=自然科学や人文科学を始め、この地球上・この宇宙に存在するありとあらゆる学問を、すべて極める。哲学も数学も物理学も生物学も医学も化学も解剖学も生理学も農学も工学も倫理学も教育学も経済学も法学その他etc、とにかくすべての学問を極める

・すべての知識=学問だけでなく、この世に存在するすべての知識…たとえば、IT関連の知識やプログラミングや金融・経済・政治の知識や雑学や百科全書的な知識など、とにかくすべての知識を極める

・もちろん、もしも知的レベルの高い宇宙人が存在しているとしたら、彼らの学問も包摂しなければならない。

「この世に存在する全ての学問・知識・情報・存在を究め尽くしたい」というのは、文字で表現すると、つまりはそういう意味だ。

 

 

ただ、いざ「この世に存在する全ての学問・知識・情報・存在を究め尽くしたい」という形で言語化してしまうと、「なーんか、違うんだよな」という気もする。

正直「この世に存在する全ての学問・知識・情報・存在を究め尽くしたい」というかなり大げさな表現ですら、本当に自分の欲するところの的を射ているものかどうかわからない。やはりこの「この宇宙に存在するすべての学問や知識その他を究め尽くす的な欲望」は、現代日本語で表現し尽くせるものではないように思える。

おそらく「全ての~」という方向性は間違っていないと思うのだ。しかし、「学問・知識・情報・存在」と並列的に書かなければならないのが気に食わない。「学問」だと象牙の塔チックで対象範囲が狭すぎるし、かといって「知識」では百科事典的で網の目が粗いように思える。「情報」だと消費期限が短いような感じを受けるし、「存在」だとそもそも何を指すのか漠然としすぎていて具体的に実感できない。

とりあえず裾野を広げるために普遍性の高そうな単語を4つ並べたが、この4つをうまいこと包含できるような抽象度の高い言葉はないものか。残念ながら、私の限りある語彙力では思い浮かばない。いっそのこと造語してしまおうか……? 電通や博報堂の広報担当者だって、世の中に新しいニーズを作り出すために日々造語に励んでいるじゃないか。

いや、もしかすると自分以外の誰かが既にこのテーマで考えていて、うまい表現を考え付いているかもしれない。よく大学の哲学科なんかでは、哲学にかぶれはじめた青年に冷や水を浴びせるために「お前が考えている程度のことはとっくに誰かが考えている」と罵倒に近い助言をしてみせる人間がいるのだから、その可能性にかけたほうが得策かもしれない。

ちなみに、最近見つけた有力候補は「縁起=すべての物事は相互に影響しあいながら存在していて、単独でアプリオリに存在するものはないことを指す仏教用語」であるが、これは目下テスト中である。2500年前に釈迦が考え付いた概念で、かなり良い線だと思う。さすがは宗教史上最高峰の天才である。

 

そういえば、自分が勝手に師匠と仰いでいる苫米地英人氏も

「完全に言語化できる欲望は危ない。自分の欲望を完全に言語化できるということは、誰かがすでにそれを広める意図を持っているということであり、言語化できる欲望を持っているということは彼らによって洗脳されていることを示すからだ。部分的に言語化できる程度の欲望ならまだいい。ただ、本当に個人が欲するものは言語化しきれないはずで、必ずどこかしら「ああ、人に言っても伝わんねえわこれ」という部分が残っているものだ。隅から隅までくまなく言語化できる欲望は、他の誰かによって言語を介して刷り込み(インプリンティング)されたものをあたかも自分の内側から生じてきた欲望のように取り違えているにすぎない」

「釈迦の悟りは言語を超えたもの=言語の抽象度を超えたもので、それは体感するしかない」

という意味のことを言っておられた(一部筆者独自の解釈含む)。

 

「言語で完全に表現できるものは、他人によって刷り込まれたものである!!」と書くと、「お、陰謀論か?」と鼻で笑う人もいるかもしれない。

しかし、言語で完全に表現できるかどうかはいったん置くとして、少なくとも「自分以外の他者による刷り込み」は強烈に私たちを支配している。刷り込む意志があるかどうかには関係なく、私たちのほうで勝手に学習している。

 

たとえば、典型的な「まともな中流階級」という想像は

1.クレヨンしんちゃんで見た野原家のイメージ・ドラえもんで描写される野比家のイメージ・サザエさんで描かれる磯野家のイメージ … 「メディア」(テレビ・漫画・活字媒体など)を通して刷り込まれたもの

2.それらを見た自分の両親や親戚や友人やネット上の赤の他人などの「他人」を介して間接的に刷り込まれたイメージ … 例えば2chで「育ちが良いヤツにありがちなこと」「育ちが悪いヤツの特徴」といった話題が思いのほか盛り上がってしまうのが好例である。たいていの人間は、自分以外の言動や動向に敏感なのである。

3.「1.と2.から自動的に学習されて、自分の中で強化されていくもの」 … 年月を経るにつれて「AはBである」「◎◎は××である」といった固定観念がどんどん増えていき、しかもその固定のされ方がますます強固になっていく

ことによって形成されるものだと思う。

 

話が逸れたが、一応整理すると

・「この世に存在する全ての学問・知識・情報・存在を究め尽くしたい」的な欲望を持っている

・ただし、まだ言語化が不完全。↑の表現はまだしっくりこない

ということになる。

 

達成の見込みは・・・?

では、「この世に存在する全ての学問・知識・情報・存在を究め尽くしたい」という願望に達成の見込みはあるのだろうか。

自分の考えとしては、

・達成可能性はある

・そもそも達成可能か不可能かを論じること自体に大した意味がない

と思っている。

 

まず、「達成可能性はある」について。

そもそも、「この世に存在する全ての学問・知識・情報・存在を究め尽くしたい」のなら、「世の中で生み出される情報量>>>>自分が日々得られる情報量」になっている限りは原理的に無理だ。消費しきれないし、学習しきれない。エンドレスで山盛りの料理がやってくる中華料理フルコースのようなものだ。食いきれない。

 

これを解決するには、3つのアプローチが考えられる。

・対象範囲を絞る。「この世に存在する全ての学問・知識・情報・存在を究め尽くしたい、の達成を諦める」という意味ではなく、自分が摂取の必要を感じない情報(たとえばオバちゃんの井戸端会議など)ははなから相手にしない

・インプットの速度と量を倍々にしていく。インプットの速度を2倍にして、量も2倍にすれば4倍速になる。インプットの速度を10倍、量を10倍にすれば単純計算で100倍速になる

・質の高いものからクリアしていく。質の悪い情報はうまく除ける。下世話な漫画ばかり読んでいても仕方がない

この3つのアプローチをうまく使いこなせば、「この世に存在する全ての学問・知識・情報・存在を究め尽くしたい」という願望はうまく満たされるのではないかと思う。完全に全知全能になることは不可能だろうが、「限りなく全知に近い何か」にはなれるはずだ。とにかく、全能にはなれなくてもいいから(あまりにも全能だと今度は人生そのものが退屈だろう)、少なくとも「ほぼ全知」にはなれるのではないか。

 

ちなみに、目標達成のために必要なもの(しかも現在まだ存在していないもの)は、新たに手に入れたり作ったりする必要がある。

現状、人間が1秒間に処理できる文字数が(とても多い人で)せいぜい1000文字くらいだとすると、一冊の本=約10万字を直列処理するには最短でも100秒かかる。日本だけでも一日に出版される本の数は200冊以上と言われているから、200冊を処理するにはどんなに短くても200*100=20000秒≒333分≒5時間30分かかる。最速でこれだから、やはり人間の目を介した「読書」という手段では限界がある。物理的制約に縛られすぎだ。大型書店に足を運んだ時のあの「ああ、この本の山のほとんどを読まずに自分は死んでいくのだろうなあ…」という感慨はこれに起因すると思う。

 

……ということは、逆に、この物理的有限性をうまいこと解決すればいい。

たとえば、「アプリをインストールする感覚で、ある分野の知識を脳にインプットできる」ような技術が開発できれば、インプットの労力と時間を大幅に削減することができる。あるいは、もう数年で実用化される(と私は踏んでいる)「脳とコンピュータの接続」も一手ではある。もちろん開発できればウハウハである。万冊をお湯代わりにして入浴できるだろう。

 

こんな案もある。

・脳の直列的な情報処理速度を上げる何らかの手段を開発し実用化する。インプット速度だけ早くても、インプットされた知識同士を理解・熟成・発展させるための速度が追いつかなければ意味がない。ただしこれはある程度の物理的制約に縛られるはずだ。神経伝達物質の反応速度や電気信号の伝わる速度などがボトルネックになるだろう

・直列処理には限界が早々に来るので、脳の並列的な情報処理能力を高める何らかの手段を開発し実用化する。脳にはだいたい1000億の神経細胞が存在するそうだから、これはかなり期待できる。相当の並列処理が可能だろう

その他に、

・「目で読書しながら、左右の耳でオーディオブック(OCR化したもの=Optical Character Recognition:光学的文字認識。要するにスキャンor撮影した文章の画像を自動読み上げ可能にすればいい)を5倍速で1冊ずつ聞く」

→標準的な日本語話者がだいたい150字/分とのことなので、5倍速なら一秒間に750文字。さらにこれを両耳でやることで1500文字/分で処理できる。これで合計1000+1500字→2500字/分となる。これなら一冊の本を40秒で処理できるので、200冊は8000秒≒133分≒2時間10分で処理できる。

・文字を指の動きや触覚に対応させて、手を介した読書を行う

・睡眠時間が短くても済むような技術を回復する

・風呂や移動の時間を最短化できるような技術を開発する

・脳の疲労や飽きをうまく緩和する技術を開発する

・↑くらい情報処理を行うと脳のために多大なエネルギーが必要になるはずで、しかも消化器官からの消化・吸収はかなり制約があるので、どうにかして解決する

 

これくらいの技術を(自前かどうかは問わない)開発・実用化できれば、「この世に存在する全ての学問・知識・情報・存在を究め尽くしたい」の達成はかなり近づくはずだ。

どのみちはっきりしていることは「現状の技術だけでは限界がある」という事実だ。しかし、無いなら作ればいい。作るための勉強も当然、「この世のすべての学問と知識を極める」の範疇の内だ。ついでにいえば、そういうものを作ってしまえば圧倒的な巨万の富を手にすることができるだろうから、早々にリタイアして、余生をひたすら学問と知識の追求に充ててもいいだろう。

 

こういうわけで(人間の不完全性とか物理的有限性とかいろいろ制約はあるが)、「限りなく全知」はイケると踏んでいる。つまり、本当の意味で全知である必要はなく、少なくとも「自分で自分のことを限りなく全知であると感じる境地に達する」ことさえできればよい。それで自分の願望は叶う。もちろん、安直に「よっしゃもう全知だぜ!」と速断する陥穽には落ちたくない。少しでも自分の本心に悖るところがある状態は、自分の望むところではない。「無知の知」を駆使しながら、極限まで全知に近付きたい。楽観的に見積もって、一生かかって達成できるかどうかというレベルだろう。

 

さて、次に「そもそも可能不可能を論じること自体に意味があると思わない」について。

 

簡単にいうと、こうだ。

「可能であると言われていること」→言うまでもなく、できる

「不可能であると言われていること」→不可能であるという根拠そのものをひっくり返せばよい。現在不可能だからといって未来永劫不可能である保証はどこにもない

「原理的に不可能だとわかっていること(たとえば本当の意味での全知全能)」→その道に真っ向から突入することは避ける。最善の代替手段をうまいこと見つける。自分の願望の満足が本当の目的なのだからそれでもOK

・以上の三点を踏まえたうえで、「不可能だと決めつける人」と「可能だと思ってみる人」との将来の成功確率を比べてみると、原理的に間違いなく「とりあえず可能だと思ってみる人」のほうが成功確率は高くなる。よく引き寄せの法則で話題になることだが、心の底から「自分には絶対できる」と思える人の脳は「絶対達成するための情報」をかなり多く拾うことになり、それによって達成確率が高くなるのだ。逆に、過去の例にばかり目を向ける人は未来にも背を向けることになり、みすみすチャンスや努力の結実を逃すことになる。

 

だから、どのみち「できる!!絶対できる!!」でいいのだ。

そもそも「不可能かどうか」という人智レベルの判断は、未来の不確実性(予測できないという性質を指す)の前では木っ端微塵に粉砕される。「できないだろうな」というのは現状の知識という枠の中での判断にすぎないのだから、不確実性が保証されている未来においてもずっと「できない」のかどうかは保証されようがない。未来がどうなるかは原理的に予測できないとわかっているのだから、とりあえず「ま、できるよね」と言ってしまっていい。

「君の挑戦はこれこれこういう理由で失敗すると思う」「アイツは失敗するだろう」とわざわざ言ってまわるヤツ、悔しかったらナビエ-ストークス方程式の一般解を見つけてみやがれ、ハイゼンベルクの不確定性原理をひっくり返してみやがれ、という話だ(他人にわざわざ「君はできないよ」と不用意なことを言ってしまう、功利計算すらできなさそうな人間に、そのような科学史上に残るレベルの偉業が達成できるのかどうかはとても疑わしいが)。

要するに、「とりあえず絶対できると思ってやってみる」という点で松岡修造さんはまったく正しいと思うのだ。

ちなみに、松岡修造さんの一番嫌いなものは「根性論」である。氏は「圧倒的に合理的な努力の積み重ね+最後の最後でモノを言うのは、結局根性になる」ということをいつもおっしゃっており、端から端まで根性論という主張をする人ではない。松岡氏の指導風景をよく見てみればわかるが、できない人を叱責することはなく、「できるのに諦めている人」の背中を押しているのだ。できる連呼=熱血漢=根性論推進派、という一面的な理解で語れる人ではない。どうか誤解なきよう……

 

おわりに:結局は日々の実行にかかっている

色々と偉そうに講釈を垂れたが、結局は

「自分の目標を達成するための行動を、日々実際に着実に実行していく」

ほかはない。「地道だけど力が付くことを、ひたすら継続すること」である。

特別な功績を挙げた人が私生活まで特別かというと、そうとも限らないはずだ。寝て、起きて、食べて、勉強して、仕事して…という、一見すると普通の人とまったく変わりない生活を送っている人も多いだろう。あるいは、偉大な小説家も凡庸な小説家も、結局「机に向かって原稿を仕上げる」という作業をこなしている様子自体はどちらも平凡に見える。しかし出来上がったものを見ると明らかな差が付いている。

この差はどこから? と考えてみると、やはり「目標の高さ」に尽きるのではないかと思う。目標の高い人が常に考えていること・目標の低い人が常に考えていることとの間には質的な差異があるはずだ。一見してどちらも「平凡な生活」を送っているように見えながら、実は本当に奥深いところでジリジリと差が広がっている。その「ジリジリ」が、やがてとてつもない差となって立ち現れる。

 

つまり、「この世に存在する全ての学問・知識・情報・存在を究め尽くしたい」という理想・目標を達成するためには、「今できるベストの選択肢をひたすら選び取り続ける」必要がある。一方で高い理想を掲げながら、もう片方ではその目標のために日々ひたすら実行すべきことを実行していく。それだけだ。これをキューバ革命の英雄の名を冠して「ゲバラ主義」と呼ぶらしい。

 

実際、自分がいま取り組んでいるのは「高校レベルの理系知識=特に数学・物理・化学を、丸暗記でごまかす部分を極力減らしつつ、きちんと理詰めで習得すること」である。

文中でそこそこ大言壮語したので落差に拍子抜けされるかもしれないが、いまの状態はといえば、真面目な顔で高校化学の参考書を読んでいるくらいなのだ。受験の時に文系科目ばかり勉強していて、理系科目をほとんど勉強しなかった(数学は2Bまでしかやっていなかったし、センターの理科は地学選択だった)ツケが回ってきている。

ただ、そもそも「全ての学問を究める」という目標を持っていなければ理系科目の勉強からはずっと逃げていただろうし、そのような目標を持つことによってマインドセットが相当変わり始めたのを感じる。高校時代は「おれには数学のセンスないんじゃあ~二次試験の数学0点だったし~」みたいな感じだったが、今ではむしろ「自分って稀代の天才だったなそういえば」くらいに思っている。プラシーボ効果(偽薬効果。思い込みだけで成果が出てしまうこと)のようなものが働いて、徐々に自分の中の色々な固定観念や自己評価が書き換わりつつあるのを体感している。

 

目下、物理と数学と化学の高校レベルの知識をきちんと&さっさと習得して、それから大学の学部レベル(工学部・理学部・医学部的な内容)をやって、ゆくゆくはどこか海外のトップスクールでPh.Dを取ろうかという目論見である。別にPh.Dが最終目標というわけではなく、「全ての学問を究めた人なら、海外の一流校のPh.Dは最低限持っていて当然だろう」くらいの逆算である。別にPh.Dがすごくないわけではなくて、自分が圧倒的にすごければ相対的にPh.Dの取得は容易になるだろうということだ。そのためにもやはり「とてつもなく高いゴール」が必須である。高いところに挑戦しようという心意気が湧き出てくるのも、全ての学問や知識を極める……という高いゴールがあればこそだ。

当然ながら、「自分の学びたいことを学んでいるうちに、海外トップスクールでPh.Dを楽々取得できるレベルの学力と知識とが知らず知らずのうちに身に付いている」くらいが望ましい。受験時代のような「やらなければならない・やる必要がある・やらされる勉強」は大嫌いだ。一つの理想は、ファイナルファンタジーやボンバーマンをやり込むくらいの気軽さでPh.Dを取ってしまうことである。野球でも学習でも、「ゲーム感覚でひたすら夢中になって没頭し続けること」が一番成果を出しやすいと思っている。

 

なお、私は基本的な思想として「未来の目標がデカければデカいほど偉人になる」「多くの人は<過去の>実績や経歴や肩書しか見ないけど、実際にその人の真価の試金石となるのは<未来の>目標に対してどれほど真摯に向き合っているかどうかだろう」という考えを持っている。一番価値があるのは未来のゴールや目標や理想であり、その次に重要なのがそのために現在何をやっているかであり、もっとも無駄なのは過去になにをやっていたかだろうと思う。

今更になって勉強を再開させた自分の立場を擁護する意味もあるが、事実として、どのみち過去というのは二度とやってこないのだから、ひたすら過去の栄光にすがり続けるよりは、現在と未来のことをしっかりやるほうがよほど得策だろう。

 

最近は野球の記事ばかり書いているので「お、野球バカか?」と思われているかもしれないが、自分はもともとかなり内向的な人間で、もっと具体的に言えば「極端に学者・研究者・小説家寄りの気質の人間」である。

残念ながら「物理空間にある身体を感覚を通じて鋭敏に的確に反応させる能力」はさほど高くないこともあって、現在は某○○○大野球部の学生コーチに落ち着いている。野球部的なウェイウェイにはあまり馴染まない、学問大好き・読書大好き・いつもボーっとしているようにしか見えない・何を考えているのかわからないとよく言われる、という人間なのだ。文体を見てわかる人にはわかるだろうが、「基本的に自意識の塊である」という点も体育会系らしくないといえば、体育会系らしくない。

当然のことだが「すべての学問や知識を極める」の中には「野球を極める」も入っている。野球に関して言えば、どんな選手にも通用するような能力開発の普遍的なマニュアルを作成して野球界の啓蒙に役立てたり、自分のところの野球部をひたすら強くするために動いたりしている。

 

野球界でこういう人材はレアだと自分で思っているので、希少価値をくずかごに放り捨てるような真似はしでかさないつもりだ。

では、また次回の記事で。

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