コミュ障にありがちな思考回路と、コミュ障の末路

      2016/08/31

コミュ障が陥りがちな思考回路

・自分が他人からどう見られるかを異様なまでに気にする。ただし、「どこをどう見られるか」に関してはずれていることが多い。

・たとえば、「あいつきもいよな」と見られていはしないかと神経過敏になっている人間は、周囲の人間が自分に対して冷笑・侮蔑を向けてきているのではないかと、そればかり気にする(往々にしてそれは単なる被害妄想である)。そのわりには、その根本原因となっているもの(たとえば太りすぎとか、しゃべるときの態度だとか)を改善しようとする努力はしない。自分がどう見られているかを気にするあまり、それをどう改善するかについてまでは考えが及ばないのだ。

・だから、「きもい(客観的に見て)のに、それを放っておいて、そのわりには自意識過剰でコンプレックスの塊」という輩が大量生産される。

・一方で、自分に対する周囲の反応が良いものである場合、「醜い自分・無能な自分」に対する余計なコンプレックスにエネルギーを浪費しないし、がんばって変わろうとする自分への冷たい反応というものを怖れないから、自分を高めていくことに成功する。かくして。「リア充」と「非リア充」との格差は、自意識という燃料を得て余計に広まっていく。正しいものの見方を妨げる要因があって、それから生じる行動へのバイアスというものが主要因になっている。

・自意識過剰な人間・内向的な人間の受け皿になってきたのが、小説とか学問の分野なのではないだろうか。社会の中には一定数、「ある分野についてはかなり有能であるが、対人関係はからっきし不得手である」という人々が存在する。彼らは規則性・網羅性・正確性を好む。不変なもの、理屈が通ってわかりやすいものが好物なのであり、そしてその代表格となるのが「文字の世界」なのである。文字は動かない。文章はめまぐるしく変わったりはしない。文学は没入できる。彼らが苦手とするのは、常に変幻自在、機知と度胸が求められる、油断も隙も無い、一瞬ごとに変わりゆく現実の世界(とくにそのなかでも人間関係)である。

 

コミュ障の末路

・なお、ひとつ着目すべき事実として、「コミュ障が陥る道というのは、決して少なくない数の人が通る道である」ということについて触れておく。コミュ障の人間は往々にして、「自分は高貴で特殊な思考回路を持っており、そのためにあえて周囲の、自分とは価値観が合わないバカどもと距離を置いているのだ」という見せかけの因果律を持っている。

・要するに、他者に承認されたという経験が乏しいコミュ障は、防衛機制として、自分は特殊であると根拠なしに思い込むことによって自己の存在意義を確保しようとするのだ。

・……しかしこの思考回路は陳腐なものであるどころか極めて時代遅れですらあることを認識した方が自分のためである。

・第一に、内向的な人々というのはコミュ障の人間が頭の中で算出するよりはるかに多い数存在している(アドラー心理学の本がどれほど爆発的に売れたかを考えてみるといい)。一見して外向的で完璧なように見える人間も、実はもともときわめて内向的自省的な視点を持っていたがために自分自身に対する改良を重ねることができたのだということもある。

・第二に、世間でいう「デキるやつ」「頭のいいやつ」「自律のできる人間」「努力のできる人間」の多くは、おそらく思考のベクトルが本質的に自己に対して向いている人間であるということを知るべきである。彼らは思考のベクトルが内向きであるからこそ、自分という存在にまつわる矛盾をひとつひとつ解決しようと試み、その結果自分を上手に統制する術を磨くことができた、といえるのだ。その中には、もともとコミュ障やぼっちであったが、自分を変えるために奮闘した結果そのような状態から脱することができた人間もいる。

・その場合、コミュ障の「自己を特別なものとみなす思考回路」は、内省的な能力の高いリア充にとっては「とっくの昔に通り過ぎた道」に過ぎない。コミュ障が自己の存在理由を補強しようとしてこしらえた理屈は、実は彼らを「ただの根暗」に貶める原因となってしまうという、実に皮肉な結果が生じる。

・当然のことながら、彼らの能力は高い。外部に対して発揮する頭の良さを、自己の内面に向けても利用できると考えるべきである(もともとその頭の良さは、内省的な経験から培われたものだともいえるが)。

・そうなると少なくとも見かけ上、彼らは「外部に対して頭脳を使う」と「内部に対して頭脳を使う」という二つのエンジンを積んでいることになる。つまり二馬力である。

・それに対して、外部環境に対応するために能力を使わない(使おうとする一歩が踏み出せない)コミュ障は「一馬力」といえるだろう。二馬力のリア充と、一馬力のコミュ障。人間が生まれつき持っている能力に、そうそう二倍もの差が生じるとは考えにくい。では、コミュ障の失われた一馬力は、いったいどこに行ってしまったのだろう? 行方の候補はふたつある。

・ひとつ、あくまでも内省的なコミュ障は、その一馬力を、さらに自己の内面に向けて用いる。彼らは哲学や小説といったもの、あるいはスピリチュアルなものや能力開発に没頭するかもしれない。

・ふたつ、自己を変革する勇気のないコミュ障は、その一馬力を、他人に対する「罵倒・嫉妬」に使う。彼らは自己を変えようと努力することを面倒臭いこととみなし、「どうせやっても変わらないから」という理屈をこねて結局行動はしない。その分の余ったエネルギーは他人に対する責任転嫁の炎の燃料となる。

 

 

<補足:アドラー心理学的な観点からいえばコミュ障はこうとらえられる>

・「コミュ障だから対人関係が苦手」という考えは誤っている。実際は「対人関係で傷つきたくない」という目的がまずあって、その手段として、いまの自分に対して「コミュ障だから」というレッテルを貼りつける。さらにいえば、彼らがなぜそのような行為に甘んじるかといえば、「変わるのは怖いから」であり、「変わらないことは楽だから」である。

・自分を変えるということは、自分の乗っている車を新しいものに変えるということに例えられる。新しい車に乗り換えるのは大変だろう。勝手が違うので自分が自分を調節しなければならないし、もしかしたら慣れない運転で事故に巻き込まれるかもしれない。しかし新しい車を買わなければ、違った乗り心地や景色を手に入れることはできないのである。自分を変える勇気を持つことが先決であり、そのためには自分自身との相談からはじめるべきだ。

・したがって、「そもそも自意識過剰になった理由が、小さい頃・思春期に周りから受けた差別的な扱いであることが大半だ」というような因果関係は成立し得ないとするのである。逆に、傷つきたくないという目的のもとに、コミュ障という理由を作り出し、その補強として「小さいころにまわりの人間から邪険な扱いを受けた」というトラウマを創出しているに過ぎない、ということになる。

・コミュ障を改善したいと願う人間には『嫌われる勇気』をおすすめしよう。新しい見方が獲得できる。

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