こんにちは、栗栖鳥太郎です。
今回も書評(というより、本の内容をザッと紹介するだけの)記事です。
きょう扱う本は、「森田療法」(岩井寛)という本。
森田療法という言葉を聞いたことがある人は少ないと思いますが、簡単に言えば「強迫神経症、恐怖症、不安神経症」といったいわゆる神経質な人がかかる精神的な病理を治療するために編み出された治療法です。
「神経症なんて自分とは関係ないや」と思う人も多いと思いますが、実は案外多くの人が苦しんでいます。
特に、匿名掲示板などで「○○するやつはバカ」「××しないと恥ずかしい」といった観念を植え付けられている現代人は、他人の目を気にしすぎる傾向がありますから、ぜひ「森田療法」を読んでみてください。
目次
苦しくても、恥ずかしくても、なお「やろうとする」ことの意味――「森田療法」
森田療法とは?
Googleで「森田療法」で検索をかけると、
森田療法は、高知県出身の精神医学者、森田正馬(もりた・まさたけ)によって創始された神経症の治療法です。 強迫神経症、恐怖症、心気症、不安神経症などに劇的な効果を発揮します。
つまり、神経症や、強迫的な傾向のある人に効果抜群の治療法である、と。
「強迫性障害なんて自分には関係ないや」と思われる方も多いでしょうが、
「人前に出ると、自分が赤面していることがどう見られているかが気になって、恥ずかしくて、帰りたくなる」
「自宅のカギを閉めたか何度も何度も確認しないと気が済まない」
「自分が他の人に悪口を言われている気がする」
といった傾向がある人は、案外多いはずです。
本書「森田療法」のなかにも、「手を洗い続けないと気が済まなくなった主婦」や
「自分が座っている椅子や床に〈針〉が隠れているのではないかと何度も何度も確認する婦人」
「人前に出ると手が震えることを気にしすぎてノイローゼになった銀行マン」
といった例が出てきます。
森田療法の核心
森田療法では、
「苦しいことや恥ずかしいことがあるとき、それを〈あるがまま〉にして認めておいて、
その一方で、<自分は本当は○○したい>という目的に向かうためにやるべきことをひたすらやる」
という二輪式の思考法を用います。
「あるがまま」というのはちょっと揉めるところなんですが、
森田氏の言葉を借りれば、
「当然とも、不当然とも、また思い捨てるとも、捨てぬとも、何とも思わないからである。そのままである。あるがままである。」ということです。
つまり、「放っておこうと思うわけでもなく、とらわれまいと思うわけでもなく、ただそのままにすること」になります。
そうやって神経症の症状を「あるがまま」にしておいた上で、
「自分は本当に心の底から○○したい」という〈生の欲望〉をかなえるためにやりたいことをやる、という積極的な行動をとります。
わかりやすくするために例を出すと、
たとえば「人前でしゃべると赤面してしまうのが恥ずかしくて、会議やミーティングで発言できない」という人がいたとします。
まずこの人がやるべきなのは、
「人前でしゃべると赤面してしまって恥ずかしい」という症状を「あるがまま」に受け止めることです。
「人前で話すと顔が赤くなるのはしゃーないよな。なるのが当たり前。緊張しない人なんていない」という感じで。「恥ずかしい。自分は人間としての価値がない」といった余計なとらわれを自分に持たせないように努力するというわけです。
そうやって「あるがまま」に受け止めようとしたうえで、
「いや、自分が本当に心の底からやりたいのは○○だ。○○するためには、たとえ苦しくても、恥ずかしくても、人前でしゃべる必要がある」
という心機の転換を試みることです。
そして、その不安が残っていることを自覚した状態で、「○○したい」という生の欲望に従って、人前でしゃべるということを選択するということになります。
これが普通の思考法と違うのは、「一度きちんと苦しみ・恥ずかしさを認めたうえで、それでもなお○○したいという生の欲望に従う」という点です。
通常であれば、「苦しくても根性だ」とか、「苦痛を超えたところに栄光がある」といったように、自己の中に生じてくる苦しみ・恥ずかしさを悪いものとして扱うのですが(世の中に出回っている名言集なんかはまさにそのスタイルです)、森田療法ではそういった判断を下すことなく、「あるがまま」にしておきます。
そして、「苦しみ・恥ずかしさは、あるものはあるで仕方ないけど、それでもなお○○することを選択する」という受容⇒積極的という心の転換をするのです。
この「あるがままに認める=一度認めてあげて、それでも○○したいという心機の転換をする」というプロセスが森田療法の核心です。一度認めるぶんだけ心がとらわれから解放されます。さらに、とらわれから解放された心に「こっちに行こうね」という方向づけをしてやるのです。これによって心のコントロールがうまくいきます。
神経症を発症する根本はなにか?
ここまで神経症を森田療法でどう治すかというテーマで書いてきましたが、ちょっと自分なりの考察をしてみたいと思います。
そもそも、「神経症を発症するのは、おそらく人間だけである」はずです。
ヒステリーになったライオンや、強迫性障害になったゴリラ・・・という例を、私は寡聞にして知りません。
ということは、神経症というのは「人間が社会的動物である」ということにそもそもの原因があるのではないでしょうか?
社会的動物である人間が一体なにに影響を受けるかといえば、
「社会の常識」
「周囲の人の持論」
「親に言われたこと」
「みんなが言っていること」
「ネット上の意見」
などでしょう。いずれも社会によってインプットされるものです。
本来であれば上記のいずれも「もともと自分の意見ではない」のですが、
親しい人に言われたり、自分が信頼を置いている媒体によりインプットされることによって、
その外部表現が内部表現のなかに同化されます。
つまり、他人の意見が自分の意見に影響を与えるわけです。
神経症傾向のある人は
「自分の醜態を見て、ほかのみんなが笑っている」
「自分は恥ずかしい行動をした。価値のない人間になってしまった」
といった強迫性の観念にとらわれているわけですが、
これらの観念のモトをたどってみれば、
「○○するのは恥ずかしい」
「××なヤツは価値が低い人間である」
といった社会的な刷り込みがあるのです。
社会的に学習すること自体は人間にとって不可欠なことですから否定はできませんが、
もしあなたがある物事に関して「恥ずかしい」とか「恐ろしい」とか「怖い」といった感情を抱いたときには、
「待てよ、これは自分自身の意見じゃなくて、もともとは社会的な常識が取り込まれたものにすぎないよな」
という反省を行ってみることをおすすめします。
そうすると、自分がいかに「自分の頭で考えたつもりになっていたか」がわかりますし、
自分がいかに「社会的な常識とされているものを無批判で受け入れていたか」がわかります。
「社会の常識は無条件で受け入れるべきだ!」と言う人もいるかもしれませんが、
その「社会の常識」というのがもしかすると「毒」かもしれないのです。
「世間の常識だから・・・」「そういう風潮があるから・・・」という理由で自分の考えを変えてしまう人は、
もしヒトラーのような指導者が出てきて「○○人を許すな!」という社会的風潮を作り出したとき、容易にそれに加担してしまう危険性があるのでは? と思います。
まとめ + とらわれから自由になりたい人のための本
さて、いかがでしたか。
この「森田療法」についてかなり大ざっぱにまとめれば、
「苦しいことや恥ずかしいことがあるとき、それを〈あるがまま〉にして認めておいて、
その一方で、<自分は本当は○○したい>という目的に向かうためにやるべきことをひたすらやる」
という原則のもとに展開されるものといえます。
この思考法は、とても有用なものだと思います。
というのは、たいていのことは「つらいから」「苦しいから」という理由で中断されてしまうからです。
その「つらい」「苦しい」「恥ずかしい」といった情動への耐性を上げるためにも、森田療法の思考法は非常に有意義なものだと思います。ストレスの多い現代人にとって、非常に便利な薬になるはずです。
この思考法をうまく使って、もっともっと自分の本当にやりたいことを追求していってください。
では、グッド・ラック!
★おまけ 「とらわれから自由になりたい人」のためのおすすめ本★
・・先日も記事で書きましたが、私は苫米地英人氏の本を70冊近く読み切り、「ああ、この人はモノホンだ。うさんくさいのはアレだけど本物だ」と確信しました。この人の本を読むと、どんどん思考の盲点が外れ、「とらわれ」から自由になり、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。私がこのブログで言っていることの大半は、この人の理論を応用して考えたものです。
以下におすすめの本を挙げておきます。
・「苫米地英人、宇宙を語る」
・「洗脳原論」
・「思考停止という病」
・「君は1万円札を破れるか?〜お金の洗脳を解くと収入が倍増する」
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