こんにちは、栗栖鳥太郎です。
私が個人的にとても尊敬している方が二人いるのですが、
それは、スポーツ界では小山裕史氏、頭脳という点では苫米地英人氏です。
お二方とも、「一生をかけて追究していけるもの」を追い求めるという点で共通しています。
そして、お二方とも「めちゃくちゃ幸せそうに充実した日々を生きている」という点で共通しています。
そこで今回は、人生に物足りなさを感じる人につける薬をご紹介します。
目次
日々の生活に物足りなさを感じる人は、「一生をかけて追究できそうなもの」を発見してのめり込めばいい
「一生かけて遊び倒してもゲームクリアにならないゲーム」を持てば、一生遊べますよね? という発想
「一生をかけて追究できそうなもの」にのめり込むことのすばらしさ
ノーベル賞を受賞するようなレベルの「研究者」のインタビューを聞いていると、
「ああ、この人はほんとうに好奇心のままに研究し続けてきたんだなあ」
と感じることが大半です。
研究生活には良いことばかりではありません。
ポストをかけた同期同士のライバル関係だったり、指導教授や論敵による激しいツッコミもあります。
世間的には「なにをやっているのかわからない」とみなされがちです。
それでも彼らは研究を続けます。
彼らは、いろいろな嫌なことがあってもなお「研究することが好き」なのであり、
「自分が研究しているものに対する没頭」することの魅力に憑りつかれているのです。
「研究していると、世界でいちばん最初に自分が発見したであろうことに出会う瞬間がある。
その瞬間があるから研究はやめられないんだ」ということを述べる科学者もいます。
いま私が出したのは科学者の例ですが、スポーツ選手や芸術家なども同様です。
いろいろと実生活で辛いこと・嫌なことがあっても、それでもなお彼らにとっては
「研究」「練習」「創作」だけはやめられないものなのです。
こういった人々がやっていることには、一つの共通点があります。
それは、「一生かけても絶対に終わらないものにのめり込んでいる」。
一生かけても終わらないゲームに興じている、と言ってもいいでしょう。
興じている、という言い方すら適当ではないかもしれません。
彼らの意識としては、ただひたすら「やる」だけですから。
そして、彼らのやっていることは、「良くなる」「進歩する」ことはあっても、「最終的な正解に辿り着く」ことはないのです。RPGゲームは「Lv.100」という決められた限界がありますが、彼らにはそれがありません。Lv.100になったら次は101。101になったら次は102…という具合に、エンドレスで続きます。
「終わりのないゲームはつまらない」と感じるか、
「終わりのないゲームだからこそ面白い」と感じるかは人それぞれです。
前者と後者を分け隔てているものは、「それを<すること自体>に楽しみを感じているか」の一点にあります。「○○だからおもしろい」という条件付きの面白さではなく、無条件で楽しむことができるかどうか? ということです。
条件:人生の物理的時間が限られている以上、のめり込むのは「自分が追究の可能性を感じるもの」にした方がよい
人生の時間は有限です。
基本的な生活速度や思考速度を上げることで実質の時間は増えますし、
これからの人類は自らの寿命をどんどん伸ばしていくことが予想されますが、
それでも、人間が生物である以上いつかは終わりが訪れます。
人生が有限である以上、「あれも、これも」をあまりにもやりすぎるのは得策ではありません。
ある程度の「あれも、これも」なら良いのですが、世の中にある無数の事象をすべて極めようとしても、
「無限のモノを有限の時間で極める」ことは土台無理な話です。
そこで、「どうやって絞るか」が問題になるわけです。
条件としては、以下のようなものが考えられます。
・やること自体が楽しいもの
・やらされるものではないもの
・追究していける余地があるもの
・追究することで多くの人に多大な迷惑をかけないもの
・追究していけば社会に何かしらの利益を与えられそうなもの
このあたりの条件をクリアしていないものにのめり込むのは、あまりおすすめできません。
たとえば「空き巣の技術を極める」「人殺しの技術を極める」「いじめの方法を極める」といっても、それは「たくさんの人に迷惑がかかる」ので倫理的にアウトです。
あるいは、「ルービックキューブを極める」のも趣味としては良いのですが、それが「一生をかけて追究しきれるだけのスケール感があるかどうか」は私には怪しく思えます。
一生をかけて究めるものは、上で述べたように「want toであること」「ワクワクすること」「結果的にみんなのためになること」などの条件がそろっている方が合理的です。社会に多大な迷惑をかけるようなことを追究するのは、倫理的にはグレーゾーンとなります。人間は社会の中で他人の力を借りながら生きているのですから、そこをわざわざ反故にする意味もないでしょう。
とにかく、「自分が追究の可能性を感じているもの」かどうかをきちっと精査しておくべきです。そうしないと、後々になって色々な不都合が起きかねません。
それが「社会の利益になっている」と確信できるなら、なお最高
「自分のwant to」が「社会の利益にもなる」のであれば、これ以上の合理性はないでしょう。
自分としてはやりたいことをやっているだけ。
それが社会の利益になって、たくさんの人が喜ぶ。
一石二鳥です。
この記事の冒頭でご紹介したお二方も、まさにそれを体現されています。
小山裕史氏は「初動負荷理論」という追究の可能性が高いものを研究されています。
現時点ではいろいろな障害(考えの古い人に拒絶されたり、精神的におかしい人に粘着されたり、誹謗中傷されたり、初動負荷マシンの偽物が出回ったり)がありますが、小山氏の初動負荷理論にはほかの理論にはない合理性があります。筋が通っているので、論理としての力は相当強いものとなっています。
論理として強いものなので、これから根強く普及していくことになるでしょう。
(ちなみに、「社会に不利益をもたらすもの」には、「本人が正しいと思っているものが間違っている」というパターンが意外と多いのです。つまり合理性に欠けているのに正しいと思っているということ。本人が気付きにくいので厄介です)
苫米地英人氏は、昔からこのブログのなかで幾度となく紹介していますが、
「世界から戦争と差別を無くす」というゴールを持っている方です。
そういうゴールを持っている人を「うさんくさいな」と反射的に拒絶してしまう人も多いのですが、
私が見る限り苫米地氏は本気でそれを達成しようとしています。
苫米地式コーチングでは「want to」がきわめて重視されるのですが、
提唱者である苫米地氏自身も自分の人生でひたすら「want to」を追究されてきた方です。
「want to」がそのまま社会の利益になる。
社会の利益になれば、人生の充実感も出てくるし、お金も入ってきます。
堀江貴文氏がよく「好きなことをやりゃいいじゃん」という意味のことを述べるのも、そういうメカニズムがあってのことです。want toは生産性が高くなるので、それが社会の要求と合致すれば、勝手にお金が入ってくる……というシステムになっているのです。
世の中は、意外とうまくできていますね。
まとめ:「のめり込む対象」を見つけるのは意外と時間がかかるけど、見つけたときの安心感は格別
最近、「自分の時間を取り戻そう」という価値観がだんだん共有されてきているような気がします。
昔から「レールの上を走るだけの人生はやだ」みたいなことをいう人はちらほらいたのですが、
情報化社会が進んで情報格差が広がった結果、
多くの人が依然として「年収○○万円は勝ち組」「学歴○○なんだけどどう?」といった奴隷の鎖自慢みたいな価値観を強めるなか、
一部の人は「自分のやりたいことをやればいいじゃん」ということに気が付き始めているのではないのでしょうか。
「やりたいこと(かつ社会の利益になる箏)をやる」と「やりたくないけど必要なことをやる」とでは、生産性で大きな差が付きます。合理的なのは「want to」のほうです。「have to」は茨の道で、しかも袋小路になっています。
私個人の思想としては、
「やりたいことをやるなんて甘えだ!」と常識通りに拒絶するのではなく、
「やりたいことをやることは合理的である」ということに気付いてほしい。
むしろ「やりたくないことを真面目にやることこそ甘え」であり、「思考停止」なのです。
思考停止は不合理です。
いまの日本人の多くはその不合理性に足をとられています。
まだまだ「やりたいことをやる=うさんくさい」という図式は根強いので、それを解除していけたらいいよなあ……と思っています。
まずは、「やりたいこと」「追究したいこと」を見つけましょう。
話はそれからです。
以上、栗栖鳥太郎がお送りしました。