「脳はこんなに悩ましい」(池谷裕二・中村うさぎ)を読んで思うこと

      2017/05/14

★試験的に、記事によって「だ・である調」と「ですます調」を分けています

はじめに:池谷裕二氏と中村うさぎ氏

「脳はこんなに悩ましい」、2012新潮社、池谷裕二・中村うさぎ共著。

現代に生きる人で、人間という存在に対してちょっとでも関心のある人であれば、「心」や「脳」についての知識欲は持っているだろう。

その「脳」のスペシャリストである脳科学者・池谷裕二氏と、「心」についての深く鋭い洞察をいとも簡単にやってのける作家・中村うさぎ氏との、稀有の対談本だ。

 

脳科学者というと川島隆太氏や久保田競氏などが有名だが、この池谷裕二氏も相当の「強者」である。

 

池谷氏の本は

「単純な脳・複雑な私」「進化しすぎた脳」「脳には妙なクセがある」「海馬」「脳はなにげに不公平」

などを読んできたが、そのどれをとっても、最新の脳科学の知見に基づく多様な話題を提供してくれている。池谷氏の書籍は概して、「へえ~、そうだったのか」と誰もが思わず童心に返ることのできるような本なのである。

 

その対談相手は、作家の中村うさぎ氏。

余談だがGoogleで「中村う」とまで打つと、中村うさぎ氏が真っ先に予測変換で出てくる。

 

うさぎ氏については、苫米地英人氏・勝間和代氏との三者対談をYouTubeで見てから興味を持ったのだが、

その後いろいろあって(死にかけたり、美魔女の魔法が解けたり、出家したり)、紆余曲折を経て「中村直腸」という法名で活動しておられるらしい。

件のYouTubeの対談動画でも語っている通り、中村氏は「人間に対する洞察」が非常に鋭い。

特に、「心と脳」の問題についても関心があるそうだ。

 

そんな二人の対談をまとめた本だから、

「心と脳」というテーマで、

読みやすく、感心する場所も多く、鋭く、楽しく、深い内容の本に仕上がっている。

 

池谷裕二氏も中村うさぎ氏も両者ともに、タイプは違えど絵に描いたように「聡明」で、テンポよく歯切れよく対談が進む。

 

普段から思索を生業にしている人間が、二人揃って言葉を交わすと、これほどディープな論議ができるのか。

そう唸らざるを得ない本だった。

 

思うこと① 京都の竜安寺の枯山水に隠された「べき乗の法則」

自然界には、「べき則」つまりべき乗の法則というのがかなり隠されている。

有名なところでは、人間の脳波にもべき則が見られ、別名「1/fの揺らぎ」と呼ばれている。

 

べき乗の法則とは、簡単に言えば以下のようなものだという。

「わかりやすい例は、地震や雪崩です。大規模なものは滅多に起こりませんが、微小なスケールのものは、その何倍もの確率で起こりますよね」

 

「同じことが、樹形の分岐にも言えます。枝分かれ距離や枝の太さです。ちっちゃな枝はたくさんありますが、大きいのは少数

 

大きさを横軸に、数を縦軸にとって対数グラフを作ると、その分布は直線になります。これがべき則です」

(56p)

高校数学で対数を習ったことのある人なら「ああ、あの対数曲線ね」とわかるだろうが、簡単に言えば↓これのことだ。

樹木の例で言えば、縦軸に数をとり、横軸に枝の太さをとると↑の図のように分布する。

これを「対数グラフ」に直せば、上述の通り、「直線」になる。

 

池谷氏によれば、

「普段はべき則なんて意識していないにもかかわらず、自然に任せて行動するだけで、それ自体がべき則になってしまう。普遍性の高さにおいて、私はべき則を信仰しています(笑)」

とのこと。

 

そういえば、Amazonを漁っていたら

歴史は「べき乗則」で動く: 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学

というおもしろそうな本があった。

 

このあたりの複雑系やカオス理論というのはかなりホットな話題だそうで、一度読んでみたいが、

そこらへんを理解するには結構な脳みそが必要な気もする。

数学から逃げ続けてきた文系の手に負える代物かどうか。

 

 

一見ランダムでカオスに満ちた自然界に、実は隠された法則が通底している――あまりにも当たり前ではあるが、よく考えてみればなんともワクワクする話だ。

現代科学では基本的に「全知全能の神がこの世界をお創りになった」という解釈はしない(cf.ゲーデルの不完全性定理)そうなのだが、それを差し置いても、なにか宇宙には得体のしれない意志のようなものが満ちているような気がする。

 

統合失調症の患者がよく「自分は宇宙という大いなるものと交信している」といった譫妄に憑りつかれたり(少なくとも本人にとってそれは真実だが)、

あるいは修行中の僧侶が宇宙と一体化した感覚を得たりするのも、「非科学的である」「単なる偶然だろう」と片づけるには惜しいのかもしれない。

 

作家の小川洋子も、代表作「博士の愛した数式」のなかで、

「数学は、神様の手帳をこっそり覗き見る行為である」

というようなことを書いていた。

 

よく

「西洋のキリスト教的な価値観においては、<自然とは神が人類にくださった恵みである>から、人類は自然を操作するという意識が強いのだ」

という論評がされる。

 

しかし、べき則を考えればわかる通り、人間はどこまでいっても自然に対しては「従」であって、徹頭徹尾物理法則によって束縛された存在に過ぎない。

人間が自然をコントロールして破壊しているから自然にやさしくしよう、という意識自体が単なる思い上がりであって、人はどこまでいっても法則の外に出ることはできない。出た気になることしかできない。人間の脳さえも物理法則のもとで動いているのだから。

 

話は飛ぶが、

作曲家クセナキスは、確率論を作曲に持ち込んだ人として知られる。

普通のピアノ曲であれば、使われやすい鍵盤と使われにくい鍵盤が存在するが、

彼は、ピアノの88つの鍵盤をすべて平等に使用して作曲した。(→クセナキス「ヘルマ」

 

芸術家や音楽家は基本的に、自らの作品を統計的に分析されたり数学的に処理されたりすることを非常に嫌うそうなのだが、皮肉なことに、彼らが

「これは自分の感性に従ってつくったものだ。数学的な理論を用いて書いたわけではない」

と主張する作品ほど、意外と「べき乗」といった法則が隠れていることが多いらしい。

 

この「脳はこんなに悩ましい」に出ている例でいえば、

それはたとえば「竜安寺の枯山水」である。

←これ

これが日本的なわび・さびの概念における「美しい」だそうだ。

 

この竜安寺の枯山水、「実は黄金比が隠れている」とか「石の配置が『心』という漢字と一緒である」とか色々言われているが、池谷氏が紹介しているのは、なんとこの日本庭園にも「べき則」が隠れているというもの。

それぞれの石と石に対して垂直二等分線を作図すると、上図のようになる。

細い点線のライン、全体としてみればなにかに似ていないだろうか。

 

そう、点線のラインは、驚くべきことに、

べき則の代表格である「木の枝の形」を成すのである。

しかも、ご丁寧に、枝の根っこはちょうど「本尊」にあたる。

 

この「方丈庭園」が作られたのは1450年のことらしいから、

当然当時の庭師は「べき乗の法則」などつゆ知らない。

本人なりに感覚を研ぎ澄ませながら、「これがいいかな、これはどうだろう」と試行錯誤していったに違いない。数学的な理論や幾何学的な法則など頭の片隅にもなかったろう。

 

それなのに、出来上がった庭を分析してみると、ものの見事に「べき則」が現れている。

やはり、人間の神秘と言おうか、得体の知れない超感覚的な能力が人間には備わっているのだろうとしか思えない。気功で病気が治癒したり、悪い予感が奇妙なほど当たったり。

超自然的ななにかを安直に想定することはアレだが(そういうのはアンビリバボーに任せておけばいい)、人間と自然のつながりというのは、思ったより深いもののようだ。

 

池谷氏は

「人間の脳は、実は、起きているときも寝ているときも同じくらいフル活動しつづけている。そのために、無意識のパワーというものが非常に大きいのだ」

と述べる。

絶対に五時に起きなければならないときに、4時59分に目が覚めたりする。

どれだけ頭をひねってもわからなかった難問が、一度寝て起きたら、あっさり解けてしまう。

 

そういえば、かの桑田真澄もPL時代にこういう経験をしていたらしい。

同じ部屋の先輩を絶対に起こしてはいけない状況では、目覚まし時計が鳴る寸前にいつも目が覚めたそうだ。

 

単なる後知恵バイアスではないなにかが、人間の脳には入っているように感じる。

枯山水の例にみる「べき乗の法則」は、その何よりの証左だろう。

 

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